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『Li-tweet』(2015春号) 感想・批評・意見トピ - うさぎ

2015/04/07 (Tue) 21:58:07

春号に関する感想・批評、一言でも、長文でも、どんどん書いてください。

Re: 『Li-tweet』(2015春号) 感想・批評・意見トピ - 緑川

2015/05/17 (Sun) 22:57:09

「追憶の晩鐘」(七夜月尚)

 滞りのない文章ですらすらと読めて、内容的も、取り扱われているアイテムにしても、なんて直球勝負な作品なんでしょ、と思いつつ拝読しました。正直、おそらく私には疎遠なジャンルのようですし、これは感想が難しいかな、などと考えながら。
 登場人物たちも、皆、良い人ばかりですし。
 もちろん、そこが不満というわけではないです。ただ、この作品を、出版された書籍の形で読んだとすれば、自分はどう思っただろう? という観点から考えてみますと(いえ、わりといつも、ツイ文では、そういう読み方をするんですけど)、単調さは否めないかなという感じです。

 もう一度、野球のピッチャーに譬えていうと、安定感はあるけれど軽くて癖のない球筋かなと。しかし、なおさんの他の作品をまだ読ませて頂いたことがないので、もともと、この作品に関しては王道というか、そういう試みの作品かも知れない、とも思いました。いやしかし、これは難しい試みかも。(ライバルのいない少女漫画を想像してみればお分かりかと)

 となると、ラストの部分がやはり気になります。

≫私の羽は、純白の恵みではなく、漆黒の呪い。お姉様に祝福をもたらす者ではない。醜い嫉妬にまみれ、

 けっこうな唐突感がありました。で、この部分をどう考えれば良いのだろうかと、しばらく考えました。王道を突っ走るのではなくて、最後にいきなり邪悪な変化球を投げてきたのか、いや、それにしてはやや物足りないかもですし。かといって、ここに至るまでの作品の雰囲気と地続きのようにも思えないです。
 もしかすると合評でも議論の分かれるところかも知れません。

Re: 『Li-tweet』(2015春号)「暴力論」(第3回)光枝初郎さん - イコ

2015/05/10 (Sun) 17:46:00

「暴力論」(第3回)光枝初郎さん

興味深い作品でした。
1度読んですぐに2度読みました。


東日本大震災にどう向かい合うか。さまざまな作者が書いてきたように思いますが、距離的に遠く隔てた地から震災の瞬間に向かい合う文章は少ないな、と思っていました。光枝さんの作品は、まさにそんな作品でした。

私事ですが、自分はそのとき埼玉にいたので、リアルな揺れと避難を経験した、直接的な被害の当事者だったんですが、あのとき1日でも震災のことが頭から離れることはありませんでした。

それはみんなが話題にしていたのもありますが、食糧がとにかくなく、停電も頻繁だったからです。

しかし1カ月後に島根県に引っ越したとき、あまりにものどかで、誰も震災のことを話題にしないのに、驚いてしまいました。

この温度差はなんだろうと思いました。光枝さんの作品を読みながら、テレビの伝える震災と、現実が乖離しているような、あの生々しい空気感を思い起こされました。


歴史が地層、という感覚も分かる気がします。ほんとうにあっさりと、見慣れた建物がなくなってしまう、という経験は自分にもあります。

そういうとき、あるべきものがなくなってしまったような、「あれっ?」という違和感にとらえられるのですが、よく考えてみれば、その土地は何度も何度も、そういうことを繰り返して、今にいたっているんですよね。

そういうことを日常的な視点や実感から考えさせてくれる作品というのは、ほんとうにすてきだと思います。


以上です。楽しく読ませていただきました。

Re: 『Li-tweet』(2015春号)「薔薇と兎と西部劇と」アキさん - イコ

2015/05/10 (Sun) 16:27:40

「薔薇と兎と西部劇と」アキさん

未読の方は今すぐ本文を読んでから、この感想を読んでいただきたいのですが、いいでしょうか? いいですね?


最後の段落で、「なんだよ、やっぱりかよ~」と笑わせていただきました。twitterで普段接していて見える、アキさんらしい、煙に巻く感じですね。好きです。


職業柄、文部省唱歌「ふるさと」に接する機会は多かったもので、「兎追ひし彼の山」が「美味し」であったという嘘には、初めから「んなわけないでしょう」とツッコミを入れずにいられなかったんですが、このごろ別の理由で「美味し」はないな、と考えるようになりました。

せっかくアキさんのエッセイから考えさせてもらったので、少々内容から脱線しますが書いてみようと思います。

大野晋さんの本を読むと、「おいしい」という言葉は、室町時代以降の婦人語であったそうです。

「おいしい」は「いしい」という古い言葉から来ていて、見事だとか、うまいという意味だったのが、使い方が限られて、味に関することを言うようになったようです。また室町時代以降、女性の地位が低くなるにつれて、やわらかい言葉を使わなければならないという要請から、「お」をつけて言うようになったのだとか。元々、男性が使う言葉ではなかったんですね。男性が同じ意味で言うときは、「うまい」と言いました。

今でこそ「美味しい」という言葉を男も使いますが、女性が「うまい」と言うことを今でも「はしたない」となんとなく感じるような雰囲気があるように、大正3年初出の文部省唱歌(男性が作詞している)に、「兎うまし」ではなく「兎美味(おい)し」と使うのは、どうも違和感があるわけです。「彼の山」に続いていくのも、文法的にも妙な気がしますね。


そんなことをくだくだと考えているわけですから、「いやいや、あり得ないでしょう」と思ってかかるわけですが、文章というものの面白いところは、断定的に書かれると、「あっ、そうかな?」と思ってしまうところにあると思うのです。

作者の書きぶりに迷いがないものだから、ついつい、「うーん、そういうことなのかも」と思わされる。これは困ったことです。で、最後の段落になって、「やっぱりかよ~」とホッとする。

これは作者の語りの見事さだと思うのですが、同時に文章というものの恐ろしさ、広告性というものを考えずにはいられなくなる作品でした。


そもそもこの作品は「薔薇と兎と西部劇と」というタイトルでありながら、「薔薇」についての記述がまったくありません。ここからして、タイトルで釣って煙に巻く、少しイジワルな、作者の意思が感じられますよね。

ただ語り手も「脈絡のない」と述べていますが、兎に関する部分がおもしろかっただけに、西部劇に関する記述の後半に関しては、やや蛇足だったかな、とも思いました。西部劇に兎が出てくるというところは面白かったです。


余談ですが「兎追ひし」はそもそも「兎と遊ぶ」という意味ではなく、獲って食べるという意味の「追ひ」なんですよね。アキさんがエッセイでも触れている通り、昔はそれが当たり前だったという。

子どもの頃から触れている歌だっただけに、初めて知ったのがいつだったかは覚えていませんが、子ども心に驚いた記憶があります。


以上です。楽しく読ませていただきました。
兎が食べたいです。

Re: 『Li-tweet』(2015春号)「それがオムレツである理由」みおみねさん - イコ

2015/05/10 (Sun) 13:08:41

「それがオムレツである理由」みおみねさん

みおみねさんのエッセイを読ませてもらって、今ちびちびと勉強しているソシュールや、バルトの言語学を思い出しました。


エッセイに「こうあらねばならない」という書き方はないと思っています。

みおみねさんがこの作品の中で「オムレツ」という言葉について考えられたように、そもそも「エッセイ」という言葉も、誰かが「こういうものをエッセイと呼ぼう」と決めて、広めていったんですよね。(元々はモンテーニュの著書から取られたようです。)

日本人は「枕草子」のような、日常を気ままに書く文学の形式をすでに持っていました。ですから「エッセイ」という言葉を今、日本人が使ったとしても、それはエッセイの本来の意味である「試み」「試論」というようなニュアンスが欠落したものであることが多く、「随筆」「随想」という言葉の方がぴったりくるようにも思われます。

けれどもやはり言葉によって何かを規定してしまうことによって、このエッセイの語り手の「オムレツ」観と、問題文を提示した側の「オムレツ」観に食い違いが生じたように、どこかにこぼれ落ちるもの、食い違うものが生じてしまうのは間違いないように思います。

ですから「エッセイ」の書き手は、「エッセイとは何か?」という問いに対して、十分に睨みをきかせつつ、結局「エッセイ」という言葉にとらわれすぎず、書くのがよいのではないかと思うのです。

また、「エッセイ」という「ただの言葉」を越えたところに、案外面白さが宿るのではないかとも思っています。


さてこの作品は、井上ひさしの「ラグビーのボールを押しつぶしたようなオムレツ」が問題文に提示されたという体験に、疑義が差しはさまれて、祖母の作ってくれた「四角いオムレツ」が登場する。

固有の体験から、非常に自然な流れで問題提起に向かっていきます。その問題提起にも、十分にみおみねさん自身の体験が絡んでいて、おもしろく感じられました。先ほどから「エッセイ」について長々と考えさせてもらったように、これは食に限った話ではないなあと思いました。

『なぜならば、今ここで私がそう言っているからだ。』

この文はとても強いですね。「オムレツ」という「ただの言葉」を、語り手の経験が上回った瞬間だったと思います。「オムレツ」って思うんだから「オムレツ」でいい。それでいいんだよな、と思わされました。


少し惜しいな、と思ったのは2段落です。指示語が多く、文章が停滞しています。冒頭部なので、ここは慎重に書かれた方が、もっと多くの人に読まれる作品になったかと思います。たとえば「あるいは」という言葉を削るだけでも、かなりスッキリします。

『私はこの作品に他の教科書作品とは違った印象を抱いている。因縁とも言えるかもしれない。良い印象とは言いづらいが、決して悪い印象ではない。』

どうでしょうか?

(でもこの2段落の「言葉」に対する迷いが、先につながってくるとも思うので、一概に悪いとも言い切れないところです)


以上です。楽しく読ませていただきました。

Re: 『Li-tweet』(2015春号) 七夜月尚「お砂糖はいくつ?」 - カヅヤ

2015/05/09 (Sat) 19:18:04

まず、食卓の雰囲気が素敵すぎる…!
思わず「俺も混ぜてー!」と心の中で叫んでしまいました。
食卓のメニュー、それに挿入される様々なエピソード、
その一つひとつの描写がとても丁寧で、
文を読み進めるのがとても心地良かったです。

「朝の連続テレビ小説」という言葉ひとつで、
食卓に集う時間帯から「正面に臨める」庭に
南東方向から穏やかな朝の日差しが降り注いでいる様子まで
ありありと目に浮かびました。
きっと、庭には緑や花々がいっぱいなんじゃなかろうか!

食べ物の詳細な描写から、幸せそうな雰囲気はもちろん
この光景が何度も何度も繰り返されていたことも感じられて
この「幸福」がこの頃の「私」にとって
本当に恒常的なものだったことも伝わってきました。

洋菓子店の食パンや百貨店の紅茶、といったアイテムからは
この家庭の「朝の食卓」以外の生活も伺えて
「素敵だなあ素敵だなあ…」と溜息。

「たまごやきの君へ」のエピソードは、
「なにこの夫婦素敵すぎる!!」と、
読みながら思わずじたばたしてしまいました。
この夫婦、他にもきっとたくさんのエピソードがあるんだろうそうだろう!

そして、短く挿入される
おばあさんの戦争のエピソード。
これは私の経験からの想像なのですが
戦争体験などの話って、大人になってから聞くのと
子供の頃に聞かされるのとでは、印象が違っていて。
自分が祖父母から戦争体験を聞かされたときは
自分の全想像力を投入して、自分を当事者に置き換えて
明日、その戦争がまた起こるんじゃないか
焼夷弾が今にも落ちてくるんじゃないかと
想像が止まらずに眠れなっておりました。

この「私」も、祖母の手を見るたびに、祖母が目の前にいないときでも
繰り返し繰り返し祖母の話を思い出していたのではないか…。
そんなことを想像しました。

この短い文章で、かつての「食卓」を通して
その記憶を持ち続けている現在の「私」から
祖父母の過去までを描き出している。
すごい素敵なエッセイでした。
なんだか私も一緒に朝食食べた気分。
ごちそうさまでした(´∀`*)

Re: 『Li-tweet』(2015春号) あんなさん「ピザまん」 - カヅヤ

2015/05/02 (Sat) 11:29:20

面白かったです。
「おもっしろいなあ…!」ってため息ついてしまって、面白い以外のうまい感想が出てこなのですが、以下、好きな部分などなど。

「一度だけ親のお金を盗んだことがある。」
この冒頭の不穏な一文で一気に引き込まれ、そこから、小学校時代の「あるある」な話にますます引き込まれ。

お金を盗むスリルたっぷりの描写も素敵なのですが、
お釣りの多さに慌てるシーンや、
「こいつまじか、みたいな目」で座ってる友人の描写がとても印象に残りました。
じゃらじゃら出てきたおつりに「えっ、うわ」ってなってる小学生の姿が目に浮かぶ!

「首から下げた鍵」「引き出しに入っている買い物用の財布」「通風口で火傷」など、取り上げる細部がまた面白くてリアルで。

「これはまじでいくら風の子でもわりと寒いな」
のような、話し言葉がそのまま文字になったような軽やかな表現も、読んでて気持ちよかったです。

子供の目線からのスリル満点な描写と、それをすごく冷静に書いている書き手の目線が、すごく綺麗に合わさっていて…いや、ほんと、とても、面白かったです(それしか言えない!)

Re: 『Li-tweet』(2015春号) 感想・批評・意見トピ - 緑川

2015/05/01 (Fri) 07:29:09

「前夜祭」(小野寺那仁)


 合評会、参加できないかもしれないので先にここに感想を。
 小野寺さんの作品は今まで何作か拝読してますが、今回も説明部分が多いかなと。指摘させて頂いたこともあるかと思いますが、もう最近は、それが小野寺さんのスタイルだと、なんとなく納得させられていたり。
 それで、ですね。状況説明ならそれはそれで、少々分かりにくいのは、ちょっと損かなと思ったりします。せっかく、面白そうな舞台設定なのにもったいないかなという気にもなります。

 面白そうといえば、Rの性格設定、「けれどもRは彼女の心変わりをまったく気にもとめない。気がつかない」云々は、面白かったです。ああ、こういうタイプは、いそうでいない。いや、いなさそうでいるかなと。

 枚数というか分量についてですが、状況説明で前半半分、白井を巻き込んだRひとみの受付の場面(クライマックス?)で後半半分となってますが、この後半部分のような書かれ方を、前半部分でも小規模ででも何ヶ所かされておられれば、読者としては小説らしく読めたのかなと思いました。
 掌編としては今の構成でも良いかと思いますが、他の方のご意見も伺いたいところです。

 最後の締めの部分ですが、投資業界で消耗していたひとみの落着……「幸福の訪れのような気がしてならないのだった」については、作品のまとめとして私は納得しました。無理のない筋立てかと。
 タイトルも良かったです。

Re: 『Li-tweet』(2015春号) 感想・批評・意見トピ - 緑川

2015/04/25 (Sat) 08:04:26

「シコウの物語」(常磐誠)


 常磐さんは、ご自身のなされたいことが分かっておられる方だと思います。また、ストーリーをきちんと組み立てようとされている点も良いです。読者を意識し、楽しませようとされている点というか、そこが出来ている常磐さんは応援したいです。
 それで、あくまで私なりにですが、3点ほど指摘させて頂きます。

1.文章
もうちょっと気を使って欲しい個所を、冒頭部分から少し抜き出してみます。
・「端正な顔立ちをして座っています」 → 「端正な顔立ち」は「する」ものではないので、端正な顔立ちの青年が……、と繋げた方が良いかと。
・「カチンときた顔をしましたが」 → カチンときた様子でしたが、あきらかにカチンときた、みたいな方が。
・「顔」、多過ぎかも。「穏やかな顔」「難しそうな顔」など。分かりやすいとは思いますが。

2.場所
 たとえば最初の城門から入国審査の場面ですが、いったいどういう場所で審査官のやり取りが行われているのかがよく分からないです。登場人物たちのやり取りは、文章的に滞りなく進んでいるので、読み進めることができますが、場面が見えにくいので、読んでいて少々、不安になります。
 後半の診察室とか、アクションシーンの場(あ、同じか?)についてもそうです。
 街、というか国の中の散策の場面ですが、キャラクターのやり取り重視で(それも、もちろん大事ですし、僭越ながら常磐さんの持ち味の良い面かなと)、異国情緒、みたいなものも読者に提示して欲しいです。

3.世界
 シリーズもののようですし、私は他をあまり読んでないので単に知らないだけで、指摘する資格はないのかも知れませんが、どんな世界なのか分かりづらいです。RPG風の世界かなとは思いますが、それならたとえば冒頭の「車」がどんな車なんだろう? とかイメージが浮かばなくて。RPGによくある西洋中世風の世界なら馬車か、不思議な原理で動く車なのか、もっと開き直って現代的なランドローバーみたいなものなのか。
 あ、車に少々拘ってみましたが、他の道具立てについても、です。

 と簡単ではありますが、感想です。
 いろいろ申しましが、この常磐ワールド、また続きを読ませて下さい。

Re: 『Li-tweet』(2015春号) 感想・批評・意見トピ - 緑川

2015/04/21 (Tue) 22:51:31

「水鏡の澱」(加津也)

 二十代半ばの女性が、折々のエピソードを交えながら、自分と友人達との約十年を語るというのは面白い設定だと思います。また、その一人ひとりの境遇の変化も興味深いです。これは、誰もが一度は書きたい設定かなと。そして本当にそれを書き上げたカヅヤさんに感心しました。

 で、その構成というか枠組みについてですが、現実時間では同窓会前に少人数のグループで集まって、そこでちょっとした事件が起き、続いて、歩きの場面、そして同窓会会場へと、その大枠も良いと思います。
 そして、その折々に過去のエピソードや主人公の感慨が差し込まれる。
 ここが少々、分かりにくかったりします。時間が頻繁に飛び過ぎるというか、短い枚数にエピソードが盛りだくさんというか。そう思う読者は多いかもです。
(ちなみに私は、個々のエピソードを時系列に並べなおしたメモを取りながら、二回読み直しました)。

 いえ、ほんと千晴や新田、二宮や、柚木といったそれぞれのキャラクターの設定は、よく読めば謎めいた部分あり、悩ましい個所もあり、切実さもありで魅力的でした。それだけに、個々の印象の薄さが惜しいかなと。人物が混乱するというか。たとえば、中上健二の「岬」も分かりにくいですが、あちらの登場人物は性別、年齢と様々で、御作では同年の女子複数なので……。一場面ごとにもっと字数を使って、個々のキャラクターをくっきりとさせるべき設定の作品という気がします。

 あと、前半はやや硬い文章で、後半から筆が走り出すというのはカヅヤさんの書き癖のようなものなのかなと勝手に思ったり。それで、前半は場面ごとのセンテンスが短くて、なおかつカットバックが頻繁に入って、後半は一気に語り手が饒舌になるという印象でした。たしか以前にも、カヅヤさんのそんな作品を拝読したことがあったような。

 ちょっと構成面について偏った感想になりました。
 タイトルに絡む要素についても書けるようであれば、また書き込ませて頂きます。

Re: 『Li-tweet』(2015春号)新嶋樹「好き嫌い」 - カヅヤ

2015/04/18 (Sat) 23:20:52

まさに、好き嫌いの多い子供でした。
読みながら、自分に重なる部分と、違う部分がくっきり浮かび上がってくるのがすごくおもしろかったです。

自分語りになってしまいますが(また!)
自分は、「知らない調理法で作られたもの、知らない味付けのもの」がダメで。
嫌いな食材は特にないから、家ではそれなりに食べられるのに、出先では全然食べられない。
お泊まり会や、親戚の家に一泊、というシチュエーションがとても怖かったのを覚えています。

あと、いちばん大きいのが、自分のところは、完食ルールがなかったこと。
幼稚園では、泣きながら給食の前に縛り付けられていたんですが
小学校は一貫して、完食を目指そうという動きはなかった。
もしあったら…学校そのものが大嫌いになっているのはもちろん、
自分の母はそれがボロクソに叱っただろう…というのまで目に浮かんで
なんて恐ろしい教育方針なんだ…と、ガクブルしました。


もちろん、共感する部分も沢山あって
食缶の感じとか、潰れたご飯粒とか、薬品の臭いのする給食室とか
「あった!たしかにあった…!」と、自分のなかの記憶が蘇りました。
あと、牛乳瓶の蓋!これ、自分のところはパックだったから、知らなくて。
なんとなくビン牛乳に対するあこがれがずっとある、パック民です…!

給食を全部食べ終わったときの、ちょっと得意な気持ち、
わかりすぎてつらい…!
自分は偏食が直ったのは中学に入ってからだったので、
小学校で完食したのは「たまたま完食できるメニューだった」とか
そんな理由だったんですが、すごい嬉しかったのは覚えています。

あと、嫌いな食べ物に対する描写が鮮明で鮮明で。
しいたけやキウイフルーツなど、読んでるこちらまで
得体のしれない食べ物を前にしている気分になりました。


岡本かの子の作品について。
全編は読んでいないのですが、
中学生向け問題集に、まさにその部分が収録されていて
仕事中にため息をつきつつ読んだ記憶があります。

イコさんの引用と、それに続くコメントが、
余すところなく、あの文章の魅力を伝えていて…!
そうそう!お母さんが子供に手のひらを見せるかんじとか、
口に含んだ子供が、はじめておいしさを感じるところとか…。

実際そんなに簡単に好き嫌い治らないと思うよ!!という気持ちが沸き起こりつつも
感動して読んだ記憶があります。

自分は、幼児園から小学校に上がる過程でも味覚が変化しているので
好き嫌いって容易に変わる、という立場なのですが
「幼少期から一貫してこれが食べられない」という人も、結構いますよね。
(うちの親父がそうです。ピーマンと牡蠣が食べられない)
そういう人が、このエッセイを読んで、どう感じるのかな、と。
そういう方たちの感想も聞いてみたいなと思いました。

Re: 『Li-tweet』(2015春号)追憶の晩鐘:七夜月尚 - カヅヤ

2015/04/11 (Sat) 18:45:51

俺得すぎる作品でしたー!!
百合の…王道…!!

キリスト教の雰囲気のある女学校、聖夜劇、姉妹、そして…肺病…!
百合作品の王道をきっちり踏まえつつ、その雰囲気や、主人公の視点のブレのなさにただただ嘆息しておりました。
語り手の、揺るぎない口調や、漢字や言葉の選び方、
劇中に交わされる会話の、
女の子たちの可愛らしい雰囲気や
おじさま、女中さんの優しい視線と雰囲気。
世界観にすっかりひたりきってしまいました。(嘆息)


女学校で行われる演劇を扱った作品て、色々ありますよね。
青い花」(志村貴子)の「鹿鳴館」、
「花子とアン」の「ロミオとジュリエット」
「日本のおともだち」(高野文子)で演じられる「青い鳥」…
「日本のおともだち」には避病院が出てきますね。
あの、切ない、切なすぎる別れが…!

百合とは全然関係ないですが
《お姉さんがマリアをやる」というシチュエーションは、
「ちびまる子ちゃん」でありますね!(゚∀゚*)

もちろんまる子はガブリエルなんてタイプじゃないから、馬の足なんですが、
お姉ちゃんが、マリア様をやるのを見ている。
ちびまる子ちゃんて基本ギャグなんですが、
「お姉ちゃんを取られてしまって寂しい」
みたいな話もときどきあって、
そういう、姉妹の、切なさとか嫉妬とか!
あるあるすぎて!つらい!


こういう色んな作品の記憶が蘇り、
それが、作品の上に二重三重の世界を作っていくのが
読んでてめちゃくちゃ楽しかったです。


>二つ歳上のこの美しい姉を想う気持ちにつける名を、私は知りませんでした。また、知りたいとも思いませんでした。

冒頭でこう言っていた露が、
最後に懺悔のように姉への思いを吐露する。

>あゝ、正直に言いましょう。
>あんなに美化していた貴女が、本当は私よりも偏食がはげしいことも、人に強く言われると、すぐになんでも引き受けてしまう、八方美人なところがあったことも知っています。
>きっと佐々野さんに親しくしていただいて、内心では得意で仕方なかったのだろうなということも。
>ずっと一緒にいたから。貴女を見ていたから。見たくないときにも、見ていたから。

このシーン、すごい好きです。
思慕と、神聖視と、幻滅と、憧憬の入り交じる
女同士の感情って、女同士って!もう!(じたばた)

素敵な百合作品、ごちそうさまでしたー!


追伸:
ひで爺がどうこう呟いてたのも、
実はこの作品でちびまる子を思い出したからで、
さらにひで爺編に出てくる、超格好いい女中さんの名前が
露ちゃんとこの女中さんとおんなじ「おヨネ」という名前だったりして
なんだこの符合楽しすぎて死にそう!!とかはしゃぎまくっておりました…。
ひで爺が濡れ衣を着せられそうになったとき、
さらっとアリバイを証明してくれたのが、今のおヨネ婆さんこと
女中のおヨネd(以下長文につき中断

Re: 『Li-tweet』(2015春号)みおみねさん「それがオムレツである理由」 - カヅヤ

2015/04/11 (Sat) 01:21:41

素敵なエッセイだったので、まじめな感想書こう…
と思ってたんですが早々に頓挫しまして、
いつもどおりなテンションの感想になりますごめんなさい!

「そんな問題見た事ない…!!」
というのが、第一印象でした。

私事ながら、国語教材と戯れるバイトをしております。
現在「握手」は光村図書と学校図書の教科書に載っていますが
教科書準拠問題集や、授業案サイトを見ても
この部分を問うているものは見つかりませんでした。

ただ、一般のブログで「ラグビーボール…」の記述を読んで
「おいしそう!」と思った、という記事が、複数ヒットしておりました。
これが「国語教育的に正しい読み方」なのかな、と思いました。

最近『国語教科書の思想』(石川千秋,2005)という本を読みました。
道徳の教科書がどうこうと言う以前に
そもそも国語教科書が道徳的だ、というようなことが書いてありました。
国語教科書で「道徳的で、文化的に正しいコード」をたたき込まれる、
それを学んだ結果として高い点数が得られる。
教科書編集に携わっているという著者が、
そういったことを、批判的に語っていて、
ラグビーボール=おいしそうというのも、
そういった一つのコードなのかなあ、と
みおみねさんの作品と、ブログとを見比べて、思いました。

ラグビーボールのたとえについて。
私自身は、ただ単に形を形容しているだけだと認識していました。
「ラグビーボール」を「おしつぶす」という比喩で
私の頭に浮かんだのは、砂埃にまみれたスクラムの絵。
それよりも、今はもうギチギチいわない両手を、すりあわせているルロイ修道士の姿に
「目の前にあるおいしそうなオムレツ」を感じ取っていました。


ちょっと話が逸れるのですが
職場の社員さんが、「お正月の行事を知らない子がいる」
という話をしていました。
だから、その単語の意味がわからなくて
国語の問題が解けないのだと。
「そういうのは家で教えるものだよなあ」という会話を聞いて、
羽根つきやコマ回しや凧揚げを
「正月行事」として子供に教えられる家がどれだけあるんや!と
でもそんなの、学校や塾で教えられるものでもないし、
そもそも昔の親が教えてたかって言うと地域で勝手に学んでたんじゃないんだろか、とか。
すごくもやもやしたのを思い出しました。

脱線ついでにもう一つ。
オムレツの問題で、自分の中学時代のことを思い出しました。
今はもう掲載されていませんが、その頃の光村の教科書には、
ねじめ正一の「六月の蝿取り紙」という小説が載っていました。
「昔の家はね、汚かったから、蝿がいっぱい出ていたから、
蝿取り紙というものを吊るしていたんだよ」
と先生が言いました。
私の家には、蝿取り紙がありました。

(´∀`*)

国語教育の持つ、道徳的文化的側面は、
自覚しておかないとものすごい暴力的になってしまうことがあるのだろうと思います。
小説の中で当たり前に登場するものに
「クラスメイトには当たり前だけれど自分にとっては違った」
ということに気づく瞬間とか。


ええと、エッセイから脱線しまくりで大変申し訳ないのですが、
かなり多くの人に知られている「握手」を切り口にして
おばあちゃんのオムレツに持っていく流れはほんとにうまいなあ、と
その繋がり方の幅の大きさ、余白の広さが
自分の記憶を刺激して、いろいろなことを思い出させてくれたのかな、と、感じました。

最後の2文で「オムレツだ」と言い切るのが
とても格好良かったです(´∀`*)

日常のいろんな事象を、みおみねさんの視点を通して
もっと読んでみたくなりました。

長々とした感想(?)、たいへん失礼いたしましたッ!!

Re: 『Li-tweet』(2015春号)尾崎枕さん「どこへいくの、みかちゃん」 - カヅヤ

2015/04/10 (Fri) 22:12:33

いろいろえぐられまくって叫びそう!\(^o^)/

みかちゃんへの「私」の目線や感情や、土地や家に対する閉塞感が、とてもヒリヒリ伝わってきて、苦しくなりました。

以下、自分で勝手に、この作品と自分の作品とを対比させた感想になります。
感想のふりした自分語りや自作解説になってるので、やべえうぜえと思ったらここで戻るんだ!


すごい自惚れと自意識過剰が入り混じってるのですが、
私の作品と尾崎さんの作品で、描き出しているものがとても良く似ていて
でも、それぞれの立場や環境は違っていて
そういったものの一つひとつを、自分の作品と対比させながら読み進めました。

「地方」を書いた尾崎さんと、「東京郊外」を書いた私。
家族を嫌いになれず、土地を憎み、最後には土地を捨てた、尾崎さんの作品の「私」と
家族にはっきり敵意を見せて、土地を離れたくせに、結局何度も家に土地に舞い戻っている、
こちらの作品の主人公。

自作の裏話になってしまうのですが、
この話に出てくる「N」は、最初、演劇部という設定でした。
演劇部で、高校を卒業してからも舞台をやりたいと言って、
市民劇団なんかに入ってしまう、それを見に行くけれどつまらなくって、
それにがっかりすると同時に、すこしいい気分になっている主人公。
前後のつながりを優先して、結局この設定もこのシーンもなくなったのですが、
尾崎さんの作品の「私」とみかちゃんの関係がまさにそれで
悲鳴を上げそうになってしまいました。

お金があったら。女じゃなかったら。
介護で疲れ果てる母親と、新しい夢を持てない「私」の姿と。
食べるものや住むところがないわけではないけれど
夢を見る余裕のない、真綿の鎖みたいな貧しさが、とても、リアルで、痛かったです。


>>「夢とかないから分かんないかもしれないけど、これすごいことなんだからね」
>>「夢ばっか見やがって」
>>「犯されてればいい……!」
>>夢なんか見れないくらい傷ついてしまえ。

このあたりの、「私」の感情が、すごく突き刺さりました。
こういう気持ちは、私の中にもあった。いまでも多分あるかもしれない。
そういうものを、鏡を見るように、突きつけられた思いがしました。

舞台設定や境遇は少しずつ違っているけれど
ちょうど、私の作品と尾崎さんの作品が
いろんなところにいる「彼女たち」の姿を、ありようを
それぞれ描き出しているように感じました。

主人公が、町を飛び出したことが、すごく嬉しかったです。
その先にきらびやかな未来があるわけじゃない、ということは分かっていて
主人公もそれを分かっていて、でも飛び出さずにいられなくて飛び出していったことが
「よくやったー!!(´;ω;`)」って、こころの中で叫んでました。

「私」は新しい夢を手に入れられたのかなあ。
手に入っても入らなくても、生き延びていってほしいと、思いました。


以上、1200字オーバーっていう、我ながら頭おかしい感想で大変恐縮ですが!
素敵な作品、ありがとうございましたー!


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