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『Li-tweet』(2014 春号) 感想・批評・意見トピ - イコ
2014/04/14 (Mon) 01:03:35
春号に関する感想・批評、一言でも、長文でも、どんどん書いてください。
Re: 『Li-tweet』(2014 春号) 感想・批評・意見トピ - ういろう
2014/04/28 (Mon) 09:44:45
○彩「知的遊技場」
いい。一般的な説明に終始せず、作家が佐藤亜紀をどんな風に読んでいるかがよく伝わってくる。
以下は僕のつまらない(笑)しゃべりになるのですが、僕は最初に読んだ時のドゥルーズの『差異と反復』を2ページ読んだ次の日に熱を出しました。
それから4年後、ジャック・デリダの『散種』に所収されている「散種」を読んでいる時、あぁ、あの『差異と反復』に近いぞ、と思ったわけです。
「散種」の時のデリダはもう、逆に読者のことを考えすぎているのかは分からないけど、とにかく読者というものを徹底的に無視しているとしか思えない笑 マラルメについて論じている癖にマラルメの「マ」の字も出てこない、そもそも引用がひとっつもない、そして何を論じているのか、四角のことを論じているのかマラルメの詩を解釈しているのか文化の変換のことを言っているのか……。
しかし2日かけて読み終えたとき、僕はこのデリダに対して、よくはわからないけど「応答」しなくちゃいけないな、て思いました。いやはや思わされたのか。なんとかブログに簡単な感想だけ残されたけど……。
例えばそういうのが「知的遊技場」なのかな、なんて笑
長いコメントでした。
Re: 『Li-tweet』(2014 春号) 感想・批評・意見トピ - ういろう
2014/04/28 (Mon) 08:26:13
○緑川「藍よりも青く」の感想
何と言えば良いのか、とにかくあっさりと読めすぎたことに関してとても疑義を感じてしまう。あっさりのものならそれはそれで何かしらの楽しみ、例えば極例を言えばラノベの代表作、谷川流の『涼宮ハルヒ』シリーズでも、幾つかの主題がある。
しかし「藍より青し」には序盤の物語とはいえ、伝わってくるものがない。日記のようなのである。
また繰り返し読んでみたら印象も変わるかもしれないが、いちおう一回目の感想として、これを残しておきます。
Re: 『Li-tweet』(2014 春号) 感想・批評・意見トピ - 小野寺
2014/04/27 (Sun) 23:58:22
「実存主義の新たな形式」感想
昨日、言わなかったのでいいます。まずタイトルについて、これは大上段に構えすぎています。実存主義というのはさまざまなバリエーションがありやや抽象的な概念でもあり定義も難しい、そこへ「新しい」とか形式とか言われると困惑します。実存は形式化されるものなのか、そもそも新しくはないですよね。ドゥルーズでさえも。
私は此の論の全体としてはベルグソンを感じました。概念はドゥルーズのものですが。そしてここでは生の有り方が生き生きとしていないかどうかという相当に通俗的人生論が基礎になっているような気がしてならないのです。人が生き生きとしているというのは何をもって他者が判断するのかは怪しいものです。背後にヘーゲルが見え隠れしてなりません。他者に認められるための哲学ならそれは実存主義ではないのではないかと思います。その逆に位置する悪しき無限時間というのもいったいに誰が悪しきと判断し無限と断ずるのか、仮に個人史と言う事ならそういったものも存在するかもしれないがそれは蜜江田さんいうところの特異点からの上昇から転落してはじめてわかることだと思います。死は絶望ならばわれわれは生まれる以前はずっと絶望していたのかということになりかねない。ということで此の論は私は実存主義ともポストモダニズムとも感じることはなかったです。ただ、文章的にはわかりやすいですし読みやすい。そして論理が破たんしているということはなかったので論としてはよくできているとは思います。タイトルを変更すれば「哲学的感想ー私自身のために」とか、ならば無用の軋轢はなかったかもしれません。
Re: 『Li-tweet』(2014 春号) 感想・批評・意見トピ - ういろう
2014/04/26 (Sat) 19:34:30
(ふかまちさんの新作については、私はまた別に評したいと思うので、それが文章に出来たらこっちにも書かせて頂きます)
る「意味のない四角」「別れ」に関するメモ - ういろう
2014/04/26 (Sat) 19:32:06
「意味のない四角」
これはこれで、確かに喜劇、つまりポップなものとして捉えることもできるだろう。
しかしそこには怖ろしいまでの虚無主義、あるいは現実―リアルへの拒否、といったもの、隠された主題を読みとらないといけない気がする。
その主題に乗っかった上で、私たちは「コンクリート」や「四角的なもの」に成りたいと欲望する主人公を、面白く感じる。
ありていにいえば、生命をつかさどった人間(ヒューマン)と、無機物であるコンクリートの対比が、この詩のライトモチーフなのではなかろうか。
私は少なくともこの詩を恐ろしい(ほどの出来)と思う。
「別れ」
そしてこの「別れ」にも、「三角」や「四角」といったものが登場する。
普通の読み手としては、これをある種のメタファーとして何が隠喩されているのか考えたい所だ。
三角と四角はかなり近い存在でありながら、決定的に違う諸特徴を持つ。
私の用語でいえば、これは〈他〉と〈他〉の恋愛論だ。それはおよそすべての諸存在同士の地平においてあてはまる問題圏へとつながる。
つまり、隠喩などは一種のトリックであって、素直にタイトル通り読んでこれは恋愛の詩なのではなかろうか。私はそう思う。
イコ「透明」に関するメモのようなもの - ういろう
2014/04/26 (Sat) 19:18:45
新嶋樹「透明」
○私が良いと思ったところ
<化学物質と黄色い砂の嵐のなか
<戦闘機の飛び回るビル群のふもと
<高速道路の閉塞した動脈の裏で
この節が特にそうなのだが、全体的に私はMr.Childrenの「Any」の曲、ならびに歌詞を想起しました。
「Any」のジャケットは非常に印象的で、夕暮れ時の曖昧な色合いが車のフロントガラスの水しずくに淡く反射しています。
かすかな暗きものの中での希望とか、輝かしいもの。つまり、シロクロではない、グレーな世界なんだけど、そこからきらきらしたものを見出すというそのポジティヴさ。
そのポジティヴさは、この作品においても通奏するものがあります。
<(雨粒ははるか上空で
< その後、光そのものとなり
< 遮るもののない
< 誰もいない場所に消えていった)
最後のこの句をあえてかっこでくくるというのがニクいですね。とても好きです。
「実存主義の新たな形式」感想 - 日居
2014/04/26 (Sat) 18:42:37
当論文で蜜江田が使用している「特異点」、あるいは「瞬間時間」といった単語は、ハイデガーが言うところの存在論的差異の語法に則っている。
存在論的差異とは、端的に言って現在存在する我々を脅かしてくる語りえないもの、たとえば論文の中でも用いられている「死」のようなものを指す。哲学全体の問題としては、この存在論的差異は本来語りえないものであって、語ってしまった時には本質を見誤り、存在論的差異それ自体が持っていた固有性を失ってしまう、という事が挙げられるのだが、実はもう一つ問題がある。存在論的差異は、平凡かつ世間の常識に従いつつ暮している状態が一度脅かされなければ現れ得ない。つまり、存在論的差異が現れるには平凡な時間(論文が言うところの「悪しき無限時間」)が必須条件となってしまうのである。
実存主義の代表者であるサルトルが有していた問題はほとんどここに尽きるといってよく、彼の発した「実存は本質に先立つ」というスローガンはあまりに有名だが、ハイデガーはそれに対して実存と本質と言う区別はあくまで哲学が立てた仮構である上に、実存は本質なしでは存在しえないものであると指摘した。
ハイデガーの戦後の「転回」はひとえにここに尽きるのであり、存在を人間中心的な思考に捉われた哲学から解放し、より世界に対して開かれるべきものであると定義しようとしたのだが、それを加味した上で現れるのは実存主義の敵対思想である構造主義の代表者レヴィ=ストロースだ。彼がサルトルに対して浴びせかけた批判は、歴史は人間が作るものではなく構造によって出来るものだ、と言った具合に単純化されてしまっているが、それ以上にサルトルは西洋哲学の思考法に則るばかりで、未開社会(「悪しき無限時間」)を蔑ろにする、むしろヒューマニズムとは程遠い人間独善主義だという厳しい論難だった。
要するにサルトルは「特異点」を神聖化するばかりでかつての哲学が抱えていた思考を抜け出せていないし、むしろ他者を抑圧し、本来権力から逃れるべきである実存主義を権威化してしまうという点に存している。もちろん蜜江田もそこには敏感で、「第二の生」の形式を突き詰めるだけでは他者を巻き込んでしまうゆえに、第三、第四の形式が必要なのだとする抜け道を用意してはいるのだが、その思考も他者への抑圧からの脱却にはなりえていない。どころか、それぞれの生の形式においては「悦び」が神聖化されるし、人間を中心として空間、時間を構成しようとする態度も変化していない。先程「他者」といったが、それは哲学者から抑圧される他の人間たちを指すのみならず、理性的でないとして卑下され続けた動物たちをも指す。動物たちが独自に構成している時間、空間を見出した生物学者にはユクスキュルがいるが、ハイデガーが同時代人である彼を参照していたのはそういう意味をも含んでいるのである。
構造主義を始めとした現代思想が実存主義を卑下する時、それは人間の有している「美しい魂」を壊してしまうものだ、と反発の目を持って見られる事が多いのだが、むしろ「美しい魂」などは所詮人間がみずからのエゴイズムに基づいて作り上げた謬見にほかならず、フーコーが『言葉と物』において人間の終焉を宣言したのはそういう意味をも含みこんでいるし、ドゥルーズが差異の思考を推し進めたのもそういう事情に基づいている。存在論的差異は我々の思考を常に襲ってくるものであるが、決してそれを神聖化してはならないし、ましてやそれを口実に他者を抑圧などしてはならない。現代思想が抱えた一つの問題は、ここにこそ存するのだ。
「また差異がその段階に対応した肯定の対象になるとき、その諸問題は、或る攻撃と選別の力を解き放つのであり、この力が、美しき魂をまさにその同一性から罷免することによって、かつその良き意志〔やる気〕を打ち砕く事によって、その美しき魂を破壊するのである」(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』、財津理訳、河出文庫、p14)