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『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/01/20 (Mon) 22:35:31

『Li-tweet』(2013 冬号) に関する感想はどうぞこちらにどしどしください!

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/03/03 (Mon) 13:35:36

「鳥の鳴く街」

この詩は苦手だと思った。詩句を呼び寄せる前に世界観を強固にしてほしいと思った。
何だろう。言葉を選ぶときにそのフレーズで選択するのではなくて、一行目を書いたあとに作品が要請するものに何か耳を傾けて詩を書いてほしいと思った。
ただ、全体として読んだときに「小さな作り物めいた世界観」は浮かび上がっていたように思います。特集の求めるものにはあっていたと思う。多少、散文的になってもいいから言葉が呼ぶ何かに耳を傾けて、ユニークな脱線があってもよかったのでは?と思う。
うーむ、なんか有機的な感想が言えなくて申し訳ない。こんどはこの書き手の生活感のある詩を読みたいと思いました。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/03/03 (Mon) 13:22:04

「たとえば庭で、落下して」

「たとえば爪のさきで本をめくるように」
「中庭を這うように」
「つま先で土を踏む」
「くまのぬいぐるみを抱くように」……など身体的な感覚・触覚を手がかりにして、それが必ずしもいつも呼び寄せるとは限らない特異な感情を詩のなかに表現しようとしていると思った。何かに触れたときに、ある記憶がふいに蘇り、遠い過去に重ね合わせる現在の光景は既視感を生むのだけど、それから生まれる感情はどこか悲しくて新しい感情でまたそれがこんどはここにないもののイメージの連鎖(「プレパラート」「残像」…)を呼び起こし、こんどは言葉そのものに(「たとえば」)焦点は移動してどこまでも落下していくんだけど、その感覚は幾層にもなっているから、いつまでも余韻が残る。その余韻が永続的につづくのに、はちゃめちゃな感覚だけが終わらないのに、大事なものと考えていた「あなた」はこぼれ落ちて行ってしまって、記憶からなくなってしまう。複雑なつくりの詩だと思いました。
あるらせん的な流れがここにはあるのではないかと思った。上の感想はよくわかりづらいかもしれませんがそのらせん的なながれを読んだつもりです。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/03/03 (Mon) 12:46:09

「竜のなみだ」

一連目が良いと思いました。そしてこの詩の枠組みみたいなものには好感を持ったんですが肝心の竜というモチーフに疑問を持ちました。なぜ竜なのか。という一点においてです。
周りのちりばめている語の息遣いは良いと思ったんですが、この竜が上手く機能しているようには思えません。最終連のリフレインも「それらしさ」を作り出すことには成功しているようには思えますがこの書き手にはここで満足をしてはほしくないと思いました。
何だろう。この詩においては竜という言葉以外が比喩のように感じられてそれが何を意味しているのか意味を想像する楽しさがあるのに、どうしてだか空想の竜だけが何か具体性を帯びていて、竜以外の世界観=比喩としての言葉の面白さをそいでしまっているような気がする。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/03/03 (Mon) 12:36:14

「I believe your brave heart」

この作品は校正担当だったため、何度も読みました。そして何度も読んでやっと書く登場人物の関係がつかめたところもあります。思春期を描いていて、おそらく中学生や高校生を対象の読者としているのでリーダビリティはもっと確保した方がよいと思いました。
文章自体は読みやすいのですが省筆されているところがあり、それが全体として上手く機能しているようには思えませんでした。
ハンディキャップを持っている人たちを描くときにそれを一般的な「かわいそうな」という視点を前提とせず、そういうものが誰にでもあるというか、当たり前のものとして受け入れられていくながれが良いと思いました。
書きたいものはあり、その世界観も決まっているのであとは基本的なスキルを上達することによって広く読まれる小説を書くことができるのではないでしょうか。
書きたいものと世間が読みたいものをうまく折り合いをつけ、読みやすいものを書いていくことが常磐さんの課題と思います。偉そうですいません。

「I believe your brave heart」を読んで - イコ

2014/03/02 (Sun) 11:50:57

まずは常磐さん、完結おめでとうございます。
連載をきちんと終わらせる体力・精神力というものに感動しています。


話の軸はたったひとつで、豪と望の殴り合いの喧嘩が中心に据えられている。スポーツを扱った小説だけれど、試合に勝つか、負けるかではなく、思春期の少年少女の思い(悩みや葛藤)が描かれている。

心の面を丁寧に扱おうとする作者のブレない筆が素晴らしいと思った。あることに対して、色んな人が色んなことを考える。けれど「誰も諦めてはいない」とする結末には、すがすがしさを感じる。

全盲であったり、アスペルガーであったりと、常磐さんは、バランスが悪く、社会からこぼれ落ちていく人たちをどう認知していくかという問題を他者の目から誠実に描こうとする。むしろ常磐さんの小説世界ではバランスが悪く見えるのは他者の方であって、つきつめて考えるとみんな一緒だよな、という思いにいたる。だからラストシーンの言葉は、ぴたりとハマっている。

問題は情報の整理にあるのではないかと思う。説明的で過剰に装飾気味な冒頭は読者を突き放してしまうだろうし、説明されていない箇所では、かれらの関係性がつかめず混乱してしまうだろう。

立ち止まらせ、考えさせる、というのはいいと思うのだが、誤解してしまうような不必要な立ち止まりが多いように思われた。推敲すればするほど、いい作品になっていくような気がする。もったいない!

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/02/24 (Mon) 23:45:53

緑川さん

感想ありがとうございました!

作品を書き終えた後、いろいろ後悔していたのですが合評や掲示板でこうして感想をいただけて、書いてよかったと思いました。

これからもよろしくお願いします。

「合同教会の人びと」(第1回)感想 - 緑川

2014/02/22 (Sat) 21:03:34

 合評でも述べさせて頂きましたが改めて。

 まず、ヒロイン(?)の「瑠奈」、ルナティックの意味でしょうか。 ともあれ、こういうエキセントリックなタイプは点景として登場させるのであれば面白いですけど、主要登場人物として冒頭から結末まで首尾一貫させるにはけっこう難しいタイプかなと思います。
 これからのご健闘を期待したいです。
 現状、描写など厚みもあって上手くいっていると思います

 文章的な面では、今回は読みにくい箇所や、唐突な場面転換も少なくて安心して読めました。あえて言えば場面の描かれ方。

『間が悪かったが、時間は過ぎていたので生徒たちはごそごそと帰り支度を始める』(2頁)

『受付でマネージャーの春子が待ち構えていた』(6頁)

 など、もう少し丁寧に書いて頂きたかったかなと。
 私は小説を読みながら、よく作中の場面を頭の中で絵にしてみるんですけど、少々、絵に浮かびにくい場面でした。

 あと、一番言いたいことですが……、続きを読みたいので是非この作品を完成させて下さい! ということで以上です。

「斜面のようになだらかな暮らし」感想 - 緑川

2014/02/22 (Sat) 15:18:12

 遅ればせながら感想を。

 本作において目に付く特徴といえば、やはり「人称」でしょうか。これを私はたんなる技術的な試みではなくて、「あなた」と「わたし」の融合(さしあたりそう呼んでおきます)と読みました。

 たとえば、3頁目の次のような部分など。

『まだ夢の中にいるのかと錯覚した。そうやってわたしたちはべつべつの夢を見ながらもひとつの時間を彷徨った』

 他にも何箇所かありますが、ゆったりとたゆたう二人の時間、なだらかな暮らしが本作の主題かと。そこでは夢と現実が曖昧になり、自我の境界さえも混ざり合う。
 実際にそこまで行っているかはともかく、そんな志向の作品かと思います。

 パスピエについては、主要登場人物に寄り添う何者かというわけで、現代文学ではときに見かけますが、もっと具体的に詳述されても良かったかと思います。
 6さんの発想の、どこからパスピエが現れたのか、そこを掘り下げることによって、もっと生きた存在になるかと。

 タイトルの「斜面」は、やはり下り坂ですかね。

『だらだらとつづく坂を宛てもなくくだりつづけるような日々』(5頁)

 タイトルと作品の雰囲気が合っていると思います。

 Q・ノリスケとのエピソードについてはどうなんでしょう? 作品世界の中の現実的な側面ということでいえば、いろいろな選択肢の中からのベスト・チョイスという感じはしませんでした。
 どんな感じであれば良かったのか、すいません、私もちょっと分からないですが。

 お見舞いの場面の「わたし」の夢の話も面白いのですが、語り口はもう少し要考慮かなと思います。喋り口調と文章語がちぐはぐな感じがします。

 ばらやアロエといった小道具の使い方は上手いと思いました。

 思いつくまま述べましたが以上です。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/02/02 (Sun) 18:44:43

「詩4篇」

「波打ち際の人魚のために」高橋源一郎が意味だらけの固有名詞をあえて選択してその意味を置き去りにして小説や詩のなかで使ったように、この詩もまた本来の名詞がそなえている意味や連想される周辺の物から離れて純粋な響きだけの言葉として使っている。そこで新たな関係性をつくりあげてもいる。でもそれよりかは、僕は「木の翼」(話す)で見せたような本来の意味と戦いながらも別面を表出させるような詩の作りが好きなので「失踪器のモノローグ」(傘)を面白く読みました。名詞の使い方は面白いものがあったので、あともっと文章というか詩句と呼べばいいのかそれ自体にこだわりを見せてほしいと思いました。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/02/02 (Sun) 17:49:41

「エターナル」

この小説を読んで思ったことはあらゆるものが丁寧に描写されることによって、ふだんとはまったく違う時間感覚の中に読者を誘い込むということだった。旅にでたとき、人は普段の生活とは違う時間感覚を手に入れるのではないかと思う。(それはあくまでも感覚であって、本当に時間が伸び縮みするわけではない)あるタイプの人間というのはそういった時間の中に自分を埋没させるために旅や旅行にでかけるのではないかと思う。その意味でこの小説は文章で読者に旅をさせる。
旅先で感じる一人であるという認識は、決して孤独とかつまらない言葉や感情によるものではなくてどこか重荷がとれたようであり、何か見知らぬものに周りを囲まれて生じる視線は古い自分を更新することができるきっかけでもあると思う。
電話の向こうから聞こえる雑踏を「声の束」と評して物質的に何かを感じ取れることも、さきにふれた新しい視線の獲得によるものが大きいのではないかと思う。
また本来、センテンスをくぎって場面転換をわかりやすく描こうとするべき場所でもこの小説はあえて長い一文を使って場面転換のわかりやすさを遠ざけている箇所があると思う。でもそういった一文にはあえて縫い目をなくすことによって、生じる「目まぐるしく何かが継続して起こり続ける」感覚を読者に与えることに成功している。
この小説は繰り返して読む面白さを持っていて、参考にしたい描き方が上記の記しただけではなく再読するたびに生まれそう。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/02/02 (Sun) 17:16:57

「消灯」

コミュニケーションについてのエピソードが形をかえてさまざまに提示される小説でそのバリエーションも豊富であることから面白く読みました。
蛍と星空の「感動」の差異というのはたしかに読み取りづらいものだったかと思うのですが主人公にとってはおそらく「蛍」「星空」というのは恣意的なものでしかないのではないかと思いました。考えとしては何かを共有している人とみた景色は心に残るものがあるのではないかということです。部長が言った「感動」がしっくりこなかったのは、語り手に取って部長はなんでもテキパキこなす羨ましくも遠い存在だったからではないでしょうか。
一方で河野君は主人公と同じくどこか不器用さを持った登場人物。河野くんと心が通じ合っていたから「星空」は共有できたのではないかと思いました。
あと「妻」が語った、名前を間違えられている院生のエピソードはなんとなく後藤明生的なものを感じて、面白かった。小説のたくらみの面から言っても蛍と人間関係の消灯が重なりあっており、良かったのではないかと思います。(プミさんの言った点灯というのはこの意味だったんですね)
ただし全面的にこの小説を肯定するつもりではなく、あくまでもこれは小説であることをもっと意識してほしかったのかもしれない。読者にとっては語り手の過去が知りたいわけではなく面白い小説が読みたい。なので事実から離れて何か固有の面白さを持てるようにもっと走り抜けてほしかったと思います。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 日居

2014/02/01 (Sat) 18:31:40

一読して思い出したのは多和田葉子の「犬婿入り」の書き出しだった。

 昼さがりの光が縦横に並ぶ洗濯物にまっしろく張りついて、公団住宅の風のない七月の息苦しい湿気の中をたったひとり歩いていた年寄りも、道の真ん中でふいに立ち止まり、斜め後ろを振り返ったその姿勢のまま動かなくなり、それに続いて団地の敷地を走り抜けようとしていた煉瓦色の車も力果てたように郵便ポストの隣に止まり、中から人が降りてくるでもなく、死にかけた蝉の声か、給食センターの機械の音か、遠くから低いうなりが聞こえてくる他は静まりかえった午後二時。

一般的にこうした主語らしい主語がなく、読点で一文一文がつなぎあわされる文章は読みにくいとされる。しかし、「犬婿入り」に関してはそんな印象を覚えることはなく、むしろ情景がくっきりと浮かんでくる。なぜか。
もちろん音読しやすい文章だということもあるだろう。だが、それ以上に重要なのは、ここに配列されている一文がそれぞれ独立した事どもを描いているのではなく、それらが有機的に絡み合っている「景色」そのものを描いているということだ。
基本的に人間は動き続けている物事に対してはその機微を一つ一つ丁寧に捉えていくのではなく、ざっくりとした理解で認識を済ませ受け流してしまう。一方で静止している物に出くわすとマジマジと見つめてしまい、思考の力配分のほとんどの割合をそこに注ぎ込んでしまう。これは車の運転を想像すれば容易に理解できることだ。縦横無尽に行き来する車や歩行者は何事もなく無視できるのに、静止したオブジェ(看板、ポツンと立った店、)に出会うと人は思わず脇見をしてしまうだろう。なぜあれは動いていないのだ、と言った具合に。つまり、人間は動いている事どもを「景色」としてしか見ておらず、「景色」に従属しない物事に出くわすとそれをどうにかして引きもどそうとしてしまうのだ。
その点で多和田の文章は人間の認識を踏まえた上で書かれたものだとわかる。洗濯物や年寄りといった事どもが、午後二時ごろの気だるい雰囲気に従属するように描いている。散歩の途中で何があるわけでもないのに立ち止まってしまう年寄りはいるだろう、何の音かはわからないがじりじりとした蒸し暑さをそのままに表現したような音が鳴っていることはあるだろう……それらの事どもは自律的に存在しているのではなく、「景色」を生み出そうとする文章が備えている磁場めいたものに操られるようにして存在しているのだ。

あんなさんの「エターナル」はこれに近しいことを実行しようとしている。

 彼女は切り刻んだパイナップルを口に挟みながら母親から届いた手紙を手の中で一度くしゃくしゃにしてからもったいなさそうにゆっくりと開いて、その手紙の内容を頭の中で音読し終わるとルームサービスでアイスクリームアソートを頼んだ。このホテルは一体どれだけの大きさなのか把握できないくらいに巨大で、ワンフロアーだけでも端から端まで見えない複雑な作りをしていたので中を歩いているだけで迷宮に迷い込んだのではないかと思わせるほどだった。等間隔に並べられたドアから漏れ出てくるテレビの音とシャワーの音とスリッパを絨毯に擦る音がかすかにきこえてくる夜の時間帯に、地下のプールに行くことも考えたがホテル内で迷子になりそうだったので大人しくクイーンサイズのベッドの中にからだを埋めたまテレビを見ていた。暗い室内を白い光が眩しく照らし、わずかに開いたカーテンの隙間から差し込んでくるヘッドライトや信号の点滅する光と混ざり合いながら目の前を横断していく。バスルームから湿ったタオルと歯磨き粉の匂いが漂いベッドシーツにゆっくりと染みこんでいった。

無数の名詞が並んでいる文章はそれらをいちいち頭の中で想像する必要が出てくるため読みにくいものとなることが多い。しかし、引用に置いてそれらは全て夜のホテルに泊まっている女が作りだす「景色」に従属している。アイスクリームアソート、テレビやシャワーの音、地下のプール、クイーンサイズのベッド、カーテンの隙間から差し込んでくるヘッドライト……たとえホテルに泊まったことがなかろうと、我々はこうした事どもに見覚えがあるだろう。こうした事どもが作り出す、あるいは夜のホテルに泊まった女が作り出す、一人でいられるはずの時間を脅かしてくる切迫した雰囲気を感覚したことがあるだろう。音読以上に、全ての要素がひとつながりになって「景色」を生み出しているのがわかるからこそ、読みやすさを覚えるのである。
そしてこうしたテクニックは、一見脇道にそれるような一文が挟まれるときに力を発揮する。

 彼はやはりその顔からもわかるように寝不足のようでふらつく足でソファーに体を押しつけるようにして腰掛けながら言った。彼の革靴は擦れて薄くなり足の指の形が浮き出て見えそうなくらいだった。母親からの手紙で彼が結婚して子供ができたのだということを知った。そしてその子供が男の子だということ、まだやっと少し言葉を話すようになったばかりだということも書いてあった。実際には彼女は手紙を見なくとも一字一句間違えずに何が書いてあったか言えるくらい手紙を何度も何度も読み返していた。

弟と顔を会わせる箇所にいたるまで設定を説明する文章はなく、ただただ場面が転換されるだけだったので、ここで少しテンポが悪くなるように思われるが、読んでいる限りそんなことはない。なぜなら以下に続く「手紙の文章には妙な切迫感があって~」という説明的な文章は冒頭で感じたような切迫感と合致するし、弟と出くわした時に認めた「寝不足」や「擦れて薄く」なった「革靴」に従属するものだからだ。
同様に地下一階のバーで二人で飲むシーンにおいて情景描写が行われようと違和感なく展開が続けられるのも、「時に指先に刺さった棘を抜こうとするような痛々しさもあった」という暗示的な一文がリードしているからこそだし、情景描写から観念的な「いつか『家族』という名で囲われていた二人のことと~」という叙述への展開がスムーズに行われるのも、そこまで積み重ねていた雰囲気が色調の変化を些細な物にするよう調整してくれているからだし、空白を挟んで視点が変わったところで読むスピードが落ちないように感じられるのも……

「エターナル」批評 - 日居

2014/02/01 (Sat) 18:30:58

とはいえこのようなスタイルにも問題がないわけではない。たとえば先程ふれたような観念的なパッセージがある。

 いつか「家族」という名で囲われていた二人のことと、「あらゆる場所に存在している他人としての二人」のことについて考えていた。実際に、五年間の間「家族」という名前を取ったらまったくの他人になってしまうくらい二人は一度も連絡を取ることはなかった。

姉弟の間の隔たりが大きいかのように記されているにもかかわらず、弟のエピソードは視点変換された形跡がないかのごとく、彼女の視点へと戻ってしまう。思い切って言ってしまえば弟の葛藤やらなにやらも物語を面白くするための道具立てであるかのように従属してしまう。この問題は、本文中に出てくる弟と彼の息子のエピソードを参照すれば更にクローズアップされる。

 もしかしたら自分が記憶しているあの苦痛や寂しさと同じ種類の感情を息子も感じているのではないかと思うたび落ち着かず、いつかは息子にも突然世界が反転する時が来るように祈ることしかできなかった。そんなことを思ううち、いつしか反転した自身の片一方が息子の中に入ってしまったような気がして申し訳ない気持ちと安心した気持ちとが一緒になってふつふつと湧き上がってくるのだった。

ここでいう「安心した気持ち」とは、息子の聞かん気な性格をわかってあげられるくらいには自分も物わかりの良い人間にはなっていないことに対する安心だといっていい。彼もまた息子と同様に葛藤を抱えている。しかしその葛藤も、子供が物わかりの良い人間になるかのごとく、青年期にはありがちなこととして「反転」してしまうかもしれない。その葛藤は本当は何にも従属することなく、反転するどころかいつまでも抱えているべきものであるかもしれないのに。
この問題を小説はきわどいところで解決しようとしている。まず息子の夢を見る。息子は父に対して構ってほしげに振舞うが、母に制止され、いつものように癇癪を見せる。しかし、今回ばかりは様子がおかしい。息子はまだ喋らないはずなのに、なんで、という言葉を投げかけてくる。そればかりか、立ち上がって父のもとに歩み寄ってくる。小さな体を抱き上げてみると、実はそれは父自身であり、横ではその様子を冷ややかな目で見ている妻と息子がいる。
この夢は、弟は息子のことをわかってあげているフリをしているが、実のところ自分の中でくすぶっている葛藤を息子に仮託しながらこの悩みは簡単に解決されるべきではないと慰めているにすぎなかった、と思い知らされる場面に他ならない。父の葛藤が個人的なものであるのと同様、息子の葛藤もまた個人的なものであり、それはお互いにわかりあえないはずのものなのである。父の癇癪はくすぶり続けるべきものかもしれないが、息子の癇癪は別に早急に取り除いても構わないものかもしれないのである。
ここで小説は一度目の分離を果たした。父に従属しない息子を生み出したのである(実際に息子は以後二度と姿を現しはしない)。そして次に果たされるべきは姉と弟の分離である。それまでの切迫感で統一されたものとはうってかわって、ラストシーンの叙述は明るい色調で統一されている(もちろん文章の読みやすさは保たれたまま)。金色の光、赤い絨毯、オレンジ色の照明、買ってきたサイダー、そしてサウンドオブミュージックの歌詞――そこで繰り返される「さようなら」は、弟が自分の葛藤は自分自身の中だけで向き合うべきだと認識したことを表す象徴でもあるし、それを見送る姉の手向けの言葉でもある。
全ての物事をトーンを変えず語りながら、全ての物事がしっかりと個人の輪郭を保ちながら存在している。そうした隘路を渡り切った末に出てきたものがこのラストシーンに他ならないのだ。

「エターナル」を読んで興奮気味に語る - イコ

2014/02/01 (Sat) 17:39:41

それぞれの人生を歩んでいた姉と弟がホテルで再会する。弟には妻や息子との離別という悩みがあり、ホテルで姉と向かい合うときも、そこから逃れられない。姉弟は「さようなら、ごきげんよう」を歌いながら、ホテルの地下にあるプールで泳ぐ。

あらすじにまとめてしまえば、たったこれだけのようなのに、この濃密な時間はなんだろう。本当におどろいてしまった。何度も繰り返して読めば読むほどに味わいが出て、読むことの幸福に浸った。

読点の少ない文章で、何文にも分けられて記述されそうな情報を一文に詰めこんでしまう。この文章は、小説の情報をなかなか頭の中で整理させてくれず、キーワードを容易に見つけさせてくれないけれど、凡庸な一文はどこにもない。ゆっくり読む楽しさは十分に保証されていて、何度も読んで、このリズムに慣れてしまえば、もうどの文章も愛着のある言葉に変わっている。

弟の境遇が詳しく描かれるのに対して、姉の背景についてはほとんど語られないのもよい。弟の境遇の重さに比べて、姉の背景が軽いことが、うまくバランスを保っている。実際は姉の人生だって決して軽くはないだろう、作者がわざと書かないようにしただけで、想像の及ぶ範囲のぎりぎり外側に、きっと姉の切実な人生もひらけているのだろうと思わせてくれる。これがどちらの境遇もしっかり描かれていたなら、小説は重たさにたえられず、輝きを失ってしまうだろう。作者はものすごいバランス感覚をもっていると思った。

シャワーカーテンのポールにベルトをくくりつけるシーンは自殺を連想させたが、一行あけて、弟がきちんと別の場所で目を覚ますところを読むと、まるで心が宙づりにされて永遠にぶら下がりつづけているような恐怖が行間からあらわれてくる。そんなところもすばらしいと思ったし、「さようなら、ごきげんよう」という明るくさびしい雰囲気のある曲が登場するラストシーンも、たいへんニクい演出になっていた。全体として、映画のようだ。

こういう作品を無料で読めることの喜びというものを感じました。

「詩4編」を読んで - イコ

2014/02/01 (Sat) 16:46:11

勝手な解釈と、それにくっつけたような感想をここに記しておきます。

○「オートマタ」について
 機械はそこにありながら、壊れて動かなくなる予感をはらんでいる。今では歴史のなかに位置づけられているオートマタならなおさらのことで、この詩はそうした、止まってしまうことの予感に満ちた詩であると思った。「壊れてしまう」のリフレイン、言葉のつながりを断ってしまう括弧、降り続ける雪や雨(人工的なものとの対比になっている)が予感を醸し出す。わたしたちは詩や小説を書くとき、やがては筆を止めて作品としなければならない。「止められてしまった言葉」を歴史のなかに置いて、降り続ける雪や雨に、たえさせてみなければならない。そういうテーマにもつながっていくと思った。

○「波打ち際の人魚のために」について
 女の子に話をしていたはずなのに、当の女の子は眠ってしまい、それでも言葉を発し続けている。届かない誰か(匿名性の高い「女の子」)の背中に、淡々と言葉を続けていくけれど、自分の言葉が誰に聞いてもらえないことも分かっている。「オートマタ」とは違う方向に、とてもさみしい詩だと思った。セミダブルベッドは、2人分にはちと狭いけれど、シングルのサイズよりはやや広い、という微妙なサイズである。他者の存在が、語り続ける自分から少しだけ離れている、この微妙な距離感が「僕」の意識の中ではとても遠い。

○「夜に」について
 20代にとって身近なテーマとなりそうな、やさしく感傷的な詩だと思った。夜は空気が静まりかえり、1人の時間が意識される時間である。他者とのかかわりの中で生きていく昼の時間に作られた指の「しこり」を、かすかな違和感と呼んでもいいだろう。夜になり、OLや院生に、自分と向き合う時間が与えられる。違和感の答えがすぐに見つかればいいのだけれど、OLも院生もまだ、問題自体がどこにあるのか分からないような、悩みの渦中にある。「僕」はそういう者たちに共感の視線をこめて、「優しい音楽」や「暖かい暖炉の火」や「曖昧な相槌」といったやさしく感傷的な答えを投げている。

○「失踪期のモノローグ」について
 とても冷たい感覚のある詩である。冬に登場する「赤蜻蛉」からは、死と憧憬、さびしさを受け取った。「モノローグ」とあるから、赤蜻蛉や傘は、「わたくし」の思いの象徴風景なのではないかと考えられる。埋立地に埋葬されている傘のイメージは、この4編の詩のなかで、もっとも鮮やかに直立してきた。なんとも壮観である。けれども埋められてしまっているのでは、それを見ることもできない。読みながら頭のなかに映像が浮かんでくるのに、実際のところ、それを映像としてとらえることはできないという、この矛盾が、とても美しいと思った。

「書かれなかった寓話」(第1回)を読んで - イコ

2014/01/26 (Sun) 20:35:43

twitter文芸部の文芸誌に、twitter文芸部のことを描く小説が現れた。しかもモデルになると思われる部員がいる。「横を向いたまま」は実際に存在する日居さんの作品で、陸山とは部員管理を長い間つとめておられた6さんのことだろうか。この作品を書いているのは作中でまさに話題になっている日居さん(新田)であるが、作者はなんと、作中に語られる「横を向いたまま」で作者新田の痕跡を消したように、日居さん自身の痕跡を消したまま小説を進めているという複雑さ! 

同人誌という環境をうまく利用したメタフィクションの試みで、こんなに意識的かつピタッと決まっている作品にはなかなか出会えないように思う。リーダビリティが他の日居作品にくらべて高いのと、謎が初めに提示されて、それが解決されないまま進んでいくので、たいへん高度なエンタテイメントになっていると思う。とても楽しく読んだ。

twitter文芸部のメンバーはふだん、skypeやtwitterを使って、当たり前のように顔の見えないコミュニケーションをしている。話そうと思えばすぐに話せる、けれど、相手の内情や背景は、ほとんど知らずに仲良くなっている。一度こじれると、二度と会えないような、希薄な関係を、綱渡りのように続けていることが多い。これはとても現代的な現象で、ここにテーマをしぼっているのもとても面白いと思う。

今後の興味としては、さて、紗江は果たして実在するんだろうか? なにしろ顔が見えないから、前提の謎からすべて嘘っぱちでもいいのだ。もちろん紗江の存在が本当でもいい。この小説の可能性は無限に広がっている。

ひとつ疑問としては、陸山が、紗江と初めて話すのを、「人となりが知れる」とわくわくしている様子があったのに対して、後半では「人となりなど別にどうでもいい」と考えているように見える点だ。陸山のこの矛盾が、作者の意図であればいいが。

「合同教会の人びと」(第1回)を読んで - イコ

2014/01/26 (Sun) 19:47:04

小野寺さんはtwitter文芸部の部員のなかでも珍しく、「個」と「社会」を意識的に接続させることのできる作家だが、これまでその性格は十分に発揮されてこなかったように見える。青少年が描かれることが多く、そのために社会への意識は影をひそめ、個の方に寄っていたのだ。

「合同教会の人びと」の主人公は、はっきりと説明されてはいないものの、中年男性のように見える。会社の新製品をタイでプレゼンテーションする立場、瑠奈の煽情的な態度にある程度の落ち着きをもって対処する様子を考えていくと、青年の域を脱した年代にあるのではないかと推測できる。

中年男性が英会話を習っている。合同教会でクリスマスパーティをするらしい。瑠奈のいたカナダの教会はテロに襲われたと言う。これらの素材を見ていくだけで、作者が、宗教や政治といった、社会的なものと対峙しようとしているのが分かる。とくに同人誌界隈では、大きなものに目を向けた小説が少ないように見えるので、小野寺さんの挑戦は、たいへん新鮮にうつる。

この作品に説明が少ないのもたいへんに効果的だと思う。読みながら想像をかき立てられる。瑠奈も静間も木島も、それなりに複雑な感情を、ここまで生きてくるうちに溜めこんできているように見える。

見えている物事だけをとらえて人間の感情を理解するというのは、本来とても難しいことだ。言いかえれば、人間は、行動ひとつに感情ひとつ、という風には、単純ではないということ。この小説には、その単純でない感じが示されようとしているのではないかと予感する。大きな社会の中で、複雑なものを折り畳んで生きている人間の生きざまを、期待しながら読み進めたい。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/01/26 (Sun) 19:08:14

書かれなかった寓話

最初に謎が提示されて、探偵小説のように謎にせまる構成が面白く、展開も工夫されており面白く読みました。ただ、ずっと疑問に思っていることがある。
紗江という人物がみずからの一族の歴史を小説に書かれたことはさして気にもとめずに、その小説から新田が消えている・出てこないという謎に深い固執を示していること。
普通の価値観からすればまず一族の歴史を書かれたことを恨むはずなのに、この人物の目的はなぜ新田が自分を小説から消したのか、それについて部員はどう思っているのかということに終始している。連載一回目なのでそれはなぜなのか明らかにならないが、答えを予想することも難しく作者がこれをどういうふうに持っていくつもりなのか気になりました。
Twitterやスカイプなどは小説に出しにくそうなものなのに、それが違和感なく収まっているところにも興味を持ちました。引用というスタイルは昔から小説でよくとられてきた方法でそれがこのように使われていくことにも参考になるものを感じました。

「斜面のようになだらかな暮らし」を他作品と結びつけてとらえながら - イコ

2014/01/26 (Sun) 18:37:17

これまで6さんの小説には、ほとんど例外なく「冒険」あるいは「冒険を夢想する人々」が描かれてきた。

「アンファンテリブル」における少年少女の、ミステリー、サスペンス、憧憬に満ちた冒険を前者とすれば、「明け方の焔」で冒険を夢見て出て行ってしまう妻や「灰色の陽と冬の紫陽花」で外国映画を擦り切れるくらい視聴し『自分にもこうした時間がいずれおとずれる』と考える憂欝な少年が後者に当たる。

いずれも「冒険に出たい」という衝動のようなものが人物に付与されていて、その姿は、作者と分かちがたく結びついているように見える。作者は好きな本を読みながら「想像力の冒険」を行ってきた、だからこそ書かれる文章にも、作者の衝動が熱を帯びてあらわれることが多かった。想像でしかないが、そんな風に考えたくなる。6さんの小説は冒険心をもつ人物と、それを描く筆が結びついているので、読みながら、そこに単なる思いつき以上の「内的必然性」が感じ取れるのである。これは作家の資質として、たいへんに重要なことではないかと思うのだ。

今回の作品を先の分類にしたがって考えると後者になるだろう。中盤、入院をした「わたし」が「あなた」にアフリカの夢を語る。これはまさしく冒険を夢想する姿で、病に冒されて自由を奪われた人間の、自由を求めてさまよう姿と置き換えてもいいように思った。ここに「わたし」の衝動があらわれており、従来の6さんの筆の勢いを感じられるところだった。

ところがそれ以外のシーンとなると、どうも不完全燃焼に終わっている。元々小動物のような弱々しい存在だったパスピエが、最後にはかき消えてしまい、大して印象にも残らない。Q・ノリスケの存在も小説の深いところに食い込んでいないように見える。

描かれる人物が精神的に大人になってしまうと、冒険心は胸の奥にしまいこまれて、「なだらかな暮らし」を続けていくしかないということかもしれない。けれど、それにしてもあちこちに見られる衝動の粒のような表現が、ちゃんとした像を結ばぬままに散ってしまうのは問題だと思った。瞬間的な理解はともかく、作品を通して、きちんと人物の状態や変化をとらえることができない。「わたし」や「あなた」を3人称的に描くという試みにも思いつき以上の「内的必然性」を感じられなかった。6さんには、次はもっと「想像力の冒険」を味わわせてほしいと勝手に期待している。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 6

2014/01/26 (Sun) 17:51:26

合同教会の人びと

直前に小島信夫を読んでいたからなのか、雰囲気が小島の文体のように思えた。
何気ない英会話教室の一場面を描きながらそこにはたしかに小説らしい異様さがまぎれこんでいて読んでいてわくわくするところ(特に後半の合同教会が実在してクリスマスパーティと共に浮き上がっていくところ)もあった。また文体については情報をつめこみ、ある種の読みにくさを伴いながらも試みとしては成功しているようにも思えた。しかし音読を意識して(音読を前提にするのではなく、校正としての音読を意識して)もう少し異様ながらもなめらかな文章で書いてほしいと思った。単純に読みにくいだけになってしまっている文章もあると感じた。
展開についても面白くキャラクターの性格も書き分けられていたように思う。そして何か明示されていない薄暗い過去が時折匂うというのもまたよかった。
でこぼこしているところが一端の良さとも思えるけど、何か調整されていないようにも思えてそれは何度も読み、何度も書き直すという作業によってもっと素晴らしい作品になれるような気がする。いろいろなことを試していく予感にも満ちた一編なので、完成を期待しています

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 小野寺

2014/01/25 (Sat) 11:52:51

「エターナル」これまでのあんなさんの作品は非常にわかりにくく読みにくかった。この作品はまず読みやすく理解できない箇所はほとんどなかったし、そればかりか描写のきめ細かさは
相当に質が高い。時折散りばめられるカタカナの日用品や食品名も利いている。少し説明があってもいいとは思うが。この作品は通俗的な言い方であるが「センス」が光っている。作者個人内的な衝動による素材の自由な切り取り方乱暴な剪定なのにそれでいて心地よいものになっているのはセンス以外のなにものでもないだろう。内容は非常に重い。

Re: 『Li-tweet』(2013 冬号) 感想・批評・意見トピ - 小野寺

2014/01/25 (Sat) 11:39:20

「消灯」エッセイのような作品である。エピソードひとつひとつはそれぞれ短編小説の素材になりうる面白さがあるけれども自己紹介的な流れの中に収束されてしまっている。他者との関係性の希薄さが個人の資質なのか時代の流れなのかと言う問いかけにも答えられていなくて流れに呑みこまれてしまっている感がある。小説は流れに抗ってふみとどまる小石であって可能性を追求してもいいのではなかろうか。織田作之助や坂口安吾はそう主張しているように思える。ただ私の感受性と筆者の感受性には差異があるので共感できない部分があるのは否めない。高校時代のエピソードにしても蛍の箇所にしても私だったらそういう行動はしないだろうと思った。それは新鮮な部分になる可能性はあると思う。

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