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隔月刊文芸誌 「Li-tweet」 (12月号) - Rain坊

2012/11/22 (Thu) 23:05:17

隔月刊文芸誌「Li-tweet」12月号に掲載されている作品に関する感想、意見、批評をここにどうぞ。

外部の方も気軽にどうぞ。

※上記以外の内容の場合は消去します。あしからず。

Re: 隔月刊文芸誌 「Li-tweet」 (12月号) - 白

2013/01/17 (Thu) 23:11:56

「あまりある自信」
 本作を読んで考えたこと三つ。
 白い顔、赤い唇、ナース服を来た男、ヒース・レジャーの演じたジョーカーか。そうなら、視線、笑み一つに、描写すべきものがある。檸檬の爆弾もしかり。モチーフのつぎはぎに読める。いったん消化、自分のものにしてから、違うもので書いてみたらどうか。
 描写について。ここでは教師について。「真面目」「こっちを睨んで」「人間らしさ」「恩着せがましい」「訳してみろ」これらの言葉から統一された人物像が思い浮かばない。またこの物語で描かれている登場人物は、頭の中のナースを除いて主人公と教師だけ。教師は主人公と対になるよう表現してはどうか。
 最後、なぜ音が聞こえたのか分からなかった。

あんなさんと安部さんの詩の感想 - 6

2013/01/17 (Thu) 12:19:00

■「あの子の眼についての法則」

あんなさんの作品でこれまで読ませてもらったものはすべて捉え難いものばかりだった。それは公式にあてはめて読むことができない厄介な言葉の集成であった。
それは難解な文章や言葉がちりばめられているという意味ではなくて、さまざまな場所にいくつもの「亀裂」が走っていたからだと思う。「亀裂」というのはこの作者にしか造れない「ひび」でもあったと考える。
今回の作品も平易な言葉で綴られているにもかかわらず、単語と単語のおもわぬ場所で亀裂が走っており、「読むこと」をしっかり意識して読まないと振り落とされそうになる。
だがこの作者の「亀裂」とはそういった意味レベルの「ひび」でもなくて、あらゆる意味での「転調」が用意されてある。以前にプミさんがおっしゃった「天然的な良さ」というのも作者の走らせた幾つかの「亀裂」の一つだったのではないかと思う。断続的に作品に「亀裂」が入ることは読者としても「不意打ち」を食らうように驚くことができて愉しい。ゆえに読者の「不意」をつく「亀裂」をいかにして、いつのタイミングで走らせるのかと言う<呼吸>がもっと大事にされるべきではないかと思う。そして「亀裂」は積み上げた塔に入るから面白いと思う。今回の詩は詩の部分部分が生き物めいた生温かさを保持しているかのように感じた。さりげなくクールに肉感的な言葉たち。そういう印象をもった。「眼」についての詩であるにもかかわらず、言葉の皮膚で呼吸するような脈動があったように感じた。その息づかいの途中である意味とても残酷に亀裂を走らせていた。背筋が冷たくなるような言葉の連なりが途中にでてきたと思う
そして塔をちゃんと作り上げると言う工程も見逃してはならないはずだ。今回の詩作品は短い言葉のなかにさまざまな色彩があり、色調があった。「言葉の皮膚呼吸」と「亀裂」の相互関係=(アン)バランスがとても良かった。だけど次に散文を書くときには「亀裂」を走らせるための丁寧な準備―塔―を作り上げることに意識を向けてほしいと思った。積み上げられた塔に「亀裂」が入るあの感じを期待する。
穏やかな波の中に誘われる最後は読者としても非常に心地が良かった。暖かい海(母なる海?)に行き着いたようで最後は安心に包まれた。

■「青い非常階段」

七編が収録されており、その色合いはさまざまなものがあるなかで共通して感じられたのは「詩の語り手」の不在。私たちはふだん詩を読みなれてはいない。小説ならその語り手が誰かが明示されるはずなのに詩ではその音楽的な言葉の配列を誰が整えているのかを断る必要はないはずだ。つまり詩とは誰でもない者が書いた一つの言葉の集成でしかないだろう。その意味でこの七編の詩は多分に幽霊のような…奇妙な論理に基づかれた詩となっている。行き先を失った感情が言葉の峡谷の中でひびきあい、右往左往している。次の言葉を導くのは以前に置かれた言葉の配列に適応するもの。風景がありそれを見つめる者もいるはずなのに見つめる者が現れる前に詩は扉を閉めてしまう。「わたし」「僕」という一人称だけは現れても、そうした人称代名詞はもはや誰でもない「わたし」「僕」にしか過ぎない。荘厳な言葉とユニークな言葉の交響に私たちが感じたのはそういった詩がもつ当たり前のイメージであった。その意味でこの詩は王道を歩んでいるのかもしれない。
「のこりつづける」「住処」を境にして一人称が「わたし」から「僕」へ変化している。同時に「わたし」は人生を達観視したような感覚をもっているのに対して「僕」はあくまで自分の居場所を求めてさまよう若者を演じている。一つの詩のなかに二つの話者がいるところにどのような意味があるのか。「わたし」「僕」に共通しているのは「眠ろう」としているほかには殆どないように思えるが、二つの一人称の橋渡しは見事にされていると言ってよいだろう。

豊かな風景と色彩のイメージ。雄々しくも枯れた人生感。次々と代わる語り手。この詩を読んで思ったことはそういった中年の味わい深い男性の感覚だ。ウイスキーがなぜか読みながら頭に浮かんだ。熟成された言葉を導き出すのが非常にうまく詩の中に配列されることでさらに醸造されていくようにも見える。一級品の詩のようにも見えるが、既視感をぬぐうことができない。技巧も凝らされていて、詩的イメージをつくることも可能なのだがついどこかで見た詩だと感じてしまう。
安部孝作という詩人はどこにいるのか。彼のオリジナリティがどこにあるのか行方を掴めなかったことが心残りだ。
しかしこう言った批評を彼は常日頃から少なくともツイ文に置いては受けてきたはずだが。

★二つの詩は最後、両方とも「海」のイメージで終幕している。そこには「蒼」と「青」という違いがあるけれど、「海」をみながら世界と自己をみつめる姿勢は実に偶然な符合になったと思う!

第四回合評会への書面回答(その3) - 日居

2013/01/10 (Thu) 16:07:52

「夏の終わりに」緑川

作品に関係のない話から書き始めるという段取りが続いて、パターンをなぞるしか芸がないのかと自分にゲンナリするのだが、『Li-tweet』に寄せられた小説を一通り読んでみて、何かが欠如している状態からはじまる小説が多いな、と思った。いちいち特徴を挙げ立てはしないが、一連の作品に目を通しながら、そこに含まれている技術なり情緒なりに驚いていたのだけれど、その感想を書き連ねていく段になると、少なからずしんどい思いがのしかかってきた。いや、正直に言うと読み始めた時点で「また何かが欠けているところから始まるのか」と瞼が重くなることが多かった。別に欠如からはじまることは悪くないし、しんどい思いも、欠如からはじまる作品が続いているのだという事実を忘れてしまえば、つまりすこし時間を置いて読みなおしてみればなくなっていった。けれど、これでいいのだろうか、という思いは依然として抜けなかった。
 単純に言って、読者はニュートラルな状態から作品へと入りこむ。書き出しから世界観が展開するのであれば、それに合わせて自らの頭の構造を、作品の価値観に合わせるように組みかえていく。かりにこうした動作が裏では行われているのだとしてみれば、欠如からはじまる、ということはニュートラルな状態からマイナスの状態へと移行しなければならない。私はこのマイナスの状態への移行がとてつもなく苦手なのだということが、一連の投稿作品を読んでみてよくわかった。底まで落ち込む、でもいいし、穴を生じさせる、でもいいのだが、マイナスへと移行するためには自分の中の何かを削り取らなければいけない。たとえ展開によってハッピーエンドが待ち受けているのだとしても、初めに通過しなければならないこの儀礼が体力を消耗させて、「しんどい」思いが生じることとなる。
読むだけなら頭を切り替えれば済む。けれど、この「しんどい」思いは感想を書く段になると顕著になっていって、感想を書くということはすなわち何かを生み出さなければならないということだから、マイナスの状態からプラスへと転じなければならないのだ。誤解のないよう断っておくが、個々の作品を読んでいる分には感心することの方が多かった。感心することで得られるものに比べれば、「しんどい」思いなどは些細なことだった。ただ、やっぱり書く段になると、マイナスの状態で留まっているものをプラスへと転じることが、何か大きな間違いを犯しているのではないかという懸念が付きまとってくる。正直、仕事の忙しさにかまけて何も語らないでしまおうと打っちゃりかけたこともある。
ひょっとしたら、これはもっと明るい物語を読みたいという、目の前の現実を見ない無い物ねだりなのかもしれない。あるいは語りやすい作品をこそ求めているのだというエゴイズムなのかもしれない。だとしたら私の感想は戯言だ。けれどこうした苦痛を伴う作品が、よりによって明るい旅路を誓うはずの創刊号に多く集まってしまったという皮肉を前にすると、やはり「しんどい」思いが重なってくる。

緑川さんの作品は草稿をあらかじめ読んでいたので、やっぱり欠如からはじまる小説だろうという思いが最初からあった。ただ、他の作品とは欠如の捉え方が少々違う。この虫は食べることが欠如しているらしい。しかし、食べる習慣が欠如していたところで、それを苦にはしていない。不思議には思うが、それがどういうことなのかと考えてはいるが、我々人間がバクテリアの細胞分裂をうらやましく思わないのと同様、羨望のまなざしはそこにない。

いつからだろう。彼女の腹部は異様に膨らんでいる。ぶよぶよとした感じではなくて、健康的に張りつめている。それでいて、手足は以前よりやせ細っている。まるで、自分の体を食べながら腹部だけが肥え太っている感じだ。
――食べる?
いや、食べるってそういうことなのか、どうなのか。
ただ、それはともあれ、そんな彼女を美しいと思う。あの夏の日差しの下でならともかく、今ここで、樹木の裂け目の奥の、世界で二匹だけの場所では、まるで女王のようにところを得ている

「それはともあれ」にはまぁいいか程度のことしか含まれていない。

なぜって、そこには理由なんてないから。探して、見つけて、それでどうしようなんて考えていない。あえて理由らしきことを言えば、それは、――食べることに似ているのかもしれない。

理由など求めなくても済むこととは当たり前の事実である。こうしたことが食べることと対置されているからには、欠如が補われていることを意味する。
主人公であるところの虫は自らの習性をあますところなく“味わっている”。仲間とともにダンスをするのでもいい、空気を気門から吸いこむのでも良い、それだけで十分なのだ。たとえ僕が死んでも命は繰り返される、幾代にもわたり、同じ習性が繰り返されるだろう、そのことを前にしては、食べることなど、どうでもいい。
万が一、それを問題にすることがあるとしたら、この昆虫が成虫になる前に体験することを思い出す時だ。つまり、“食べる”ということを唯一体験する幼虫時代を回想すること。しかしそれもまた所詮昆虫の生のルーティーンの一部に過ぎない。幼虫から成虫になる段階において剥ぎ取られる“食べること”は、必然なのである。主人公はその剥ぎ取られる習慣を欠如としない。繰り返されることなのだろうと肯定する。命の連鎖がこれからも続けられるだろうとの希望を託しながら。

 緑川さんの作品を読みながら、私は『Li-tweet』に寄せられた小説たちへの見方を若干改めた。小説の中で欠如が描かれていようと、その裏には皆が力を傾けた形跡が潜んでいる。実際『Li-tweet』創刊号は相当な熱意をもって作られた。内容を云々するよりも、それだけで十分じゃないかという気が兆してきた。きっと小説の中に含まれている欠如もまた必要なことだったのだと。ただ、不安はまだ残っている。

第四回合評会への書面回答(その2) - 日居

2013/01/10 (Thu) 16:06:49

 彼は自分の出自は話したが、誰からその話を聞かされたのかは語らず、両親や村がどうなったのかも話さなかった。

 伝聞は事実であると証しだてるように、「彼」は母親の双眸から落ちてきたという「二つの水晶体」を持ち歩いているが、それだけでは本当に出自を証し立てることはできない。
 「彼」が嘘を教えられた可能性がある、というのではない。「彼」は自身に降りかかった惨劇に覚えがなくとも、事実だと思いこまざるを得ないというジレンマを抱えているのである。そのジレンマの上に、自分が母の双眸を奪ってまで生きるべきだったのか、というこれまた正答の出ない葛藤が重なる、と言ってしまうのは冗語だろうか。更に、取りだしてしまえば致命傷となってしまうらしい「羽の核」を失いながらも微笑みかけてくる人間が目の前にいることで、もしかしたら父親は救われるのではないかとの根拠の薄い希望をナツが抱いてしまう、などと言ってしまうのは。
 小説もまた、こうした人物模様に比例するように、出てくる小道具たちは全て何かにたとえられなければ存在しえないイミテイションとして登場することになる。

 初めて口にした酒は、チョコレートの味がした。

 「なんだっけ、大阪のエッフェル塔?」と言う。その言葉に彼女も思わず噴き出して、「あれなァ、エッフェル塔はないと思うわ」と言って苦笑した。

 千手観音のようだからと、翼腫はかつて「かんのん」と呼ばれた。だが、醜い腫瘍は「イモ」と呼ばれて、翼腫はやがて「イモかんのん」と言われるようになっていった。

 こうした物たちのみならず、後半にて繰り広げられるライブを支える「アンプ」もまた、実際に発せられる振動を電気回路によって増幅させて、ともすればマガイモノとも呼べてしまう音響を生んでしまう機器であろう。加えて、バーテンダーの故郷で起こったという光景への憧れが裏打ちとなってもたらした、ナツのこうした心情描写も、例示に繰りこめるかもしれない。

 七色の音が身体を揺さぶり、身体中が、羽根を噴くように震えている。背から、腕から、翼が生えてきそうだった。
 全身から羽根が噴き出して、身体が全部羽根に変わればいい。
 そうして、光と一緒になって、ここに散ってしまえばいい。

 あるいは、彼が放り投げた「羽の核」がもたらした光景も。

 水晶体から溢れる光が、ナツの手の上で膨らんで、広場の空に弾けた。石は周りの雪をすべて光に変えて空高く登って行く。道行く人が喚声を上げて空を見上げる。ナツは、発光する空が自分に向かって降り注ぐのを見た。光は冷たく暖かく、ナツの身体を刺し貫く。
 天を仰ぐナツの目から溢れた涙も光になった。身体じゅうが光る、
 羽根のように、光る。空は星をばら撒いたように、白く赤くきらめいている。
 羽根だ、羽根だとナツは思う。
 ナツが毟り取り金にして、ナツが焦がれて彼女が見とれた、七色の羽根、たくさんの羽根。
 父の羽根を毟って洗った指先は、血を噴くほどひび割れあかぎれになっていたが、もう、冷たい水で血膿を洗い流すこともない。光の羽根はナツを傷つけることなく、けれどもナツに熱い痛みを与えながら、あとからあとから降り注ぐ。

 「羽の核」が放った光は羽根ではない。それもまたイミテイションに過ぎない。実際に羽など落ちてこないし、光で照らされたことで羽が降りてくるように見えていたものも、「羽の核」が落ちてきてしまえば雪と変わる。「広場の光がゆるやかに弱まり、ナツは掲げていた手をゆっくりと下ろした。発光していたナツの身体も、ゆっくりと光を失い、広場
は、さっきまでの静寂を取り戻す」。しかし、ナツはそうした光景を見せてくれた「彼」に泣き笑いの表情を見せる。たとえイミテイションであろうと、その光景はかけがえのないものである。本物には生み出せない光景を繰り広げてくれるのである。そこで一つの転倒が起こる。本物のコピーに過ぎなかったイミテイションに、固有性が生まれる。本物とは違っているのだと定義されることで、イミテイションにしかない要素が生まれてくる。
 そしてこの固有性は、正答のない問題になると一層強く浮かび上がってくる。たとえば、死の事実を突きつけるというべきだったのか、「死ぬわけないよ」と励ますべきだったのかという問題を突き付けられて、片方を選んだことが正しかったのかどうかという葛藤に苛まれる時、我々は片方を選んだ末に起こった固有の出来事を受け止めることしかできない。自分の選択は正しかったのだと無理に肯定する、ということではない。それでは正答のなかったはずの問題に「正答」を仮設してしまうことになる。そうではなく本物だの正答だのといった頭にちらつく可能性を振り払った末に、目の前にある揺るがしようのない事実をありのままに受け止めるということなのだ。いうなれば現実を直視できる強い視線を手に入れるのである。
イミテイションだらけの小説の中で、唯一本物が登場するシーンがある。ナツは隠しバーでのライブが一段落した後、果たして似ているのかどうかもわからないままに売りさばいていたマガイモノが、実は本物そっくりだったのだと知ることになる。

 天使の手羽肉が、そこにはあった。
 イモかんのんかヒナのものなのか、鶏のもも肉ほどの大きさのその肉は、ナツのよく知る翼腫の手羽と同じ形をしていた。
 ――おとうさん。

 このシーンは、正しかったかどうかわからない自分の選択が、実は正答に近いものだったとの暗喩になっているといえる。しかし、暗喩は暗喩である。実際に「イモかんのん」が「ヒナの手羽」に似ていたところで、父親への仕打ちが肯定されるわけもない。少女はこれからも父親の叫びを反復することとなるだろう。あれは正しかったのかどうかという苦悶と共に。しかし、前途はそう暗澹としたものでもない。目の前には同じ悩みを共有した、背中の左側に「穴」をくぼませている男がいる。同じ葛藤を抱えながらも幼い笑みを絶やさない男に導かれるように、少女は生きていくこととなるだろう。

 彼は座ったまま、幼い、得意げな笑顔をしてナツを見ていた。ナツは泣き笑いのような顔をして、彼の隣に膝をついた。

第四回合評会への書面回答(その1) - 日居

2013/01/10 (Thu) 16:05:26

 「羽」芦尾カヅヤ

 天使とは怪しいヤツである。
 この言葉の語源はギリシャ語のアンゲロスAngelosまでさかのぼり、原義には「伝令」の意味が含まれているのだそうだ。伝令とは上官の言葉を代わりに届ける者だが、コイツといざ対面した時、受取人はちょっとした困難に出くわすこととなる。コイツが本当に上官から言葉を伝えられたのかどうか、受取人には分からないのだ。といっても、伝令のフリをして軍の統制を失わせるスパイの可能性がある、という話ではない。実際に上官が伝令に依頼を託している光景を受取人は見ていないのであって、そういう証拠なしに目の前の人間を信用しなければならない、という困難が待ち受けているのである。いうなれば伝令には、本物でもないが偽物だと扱ってもならないというジレンマが潜んでいるのだ。
 事が天使となるとこの困難は更に引き立ってくる。天使とはお天道様の言葉を携えてやってくるのだが、第一このお天道様というのが我々には見覚えがない。伝令の場合なら、上官とはあらかじめ付き合いがあるからひとまずの信頼関係は築けていたのだが、付き合いどころか面識のないヤツとどう信頼関係を築けばいいのだろうか。おまけにこの面識のないオエライさんは、どうやら我々の預かり知らないところで代理を立てていたらしい。直々のミコトノリではなく、代理人の言葉だけが我々に届けられる。ただでさえ信用の置けない者のみならず、その奥に潜むこれまた信用の置けない者を信じなければならないという、二重の関門が天使という制度には盛り込まれているのである(もっとも天使は肉体をもたず声だけを届けてくるというのだから空耳と間違える可能性もあるわけで、実際には三重の関門なのかもしれない)。
 しかもこれだけならいざしらず、我々はなんの抵抗もなく天使という制度があるのだろうと見積もっているが、実際にこの御使いが天から降りてきたのだと知っている人間はどれくらいいるだろう? ムハンマドのような選ばれた人間だけである。我々は預言者の言葉を信じてとりあえずそういうことがあるのだろうと推測しているのだが、科学的な定義をもちだすまでもなく、誰しもがその瞬間に立ち会えるのでない限り、天使という制度があるのだと確言は出来ない。しかし我々はなぜか少数の証言だけを元に、ミコトノリはお天道様直々にではなく、代理人である天使によって伝えられるのだと“信用している”。あるいは、預言なんて幻想であるけれど面白い話だから骨組みだけ借りてみましたと断っている多くのフィクションもまた、そこに暗黙の掟でも出来ているかのように天使を登場させている。神が言葉を伝える方法はいくらでもあるだろうに、なぜか天使が常に登場する。先程も述べたように、伝令自体信用を置くのが難しい存在だというのに。
 冒頭にて天使が怪しいと述べたのは、彼の出自自体もさることながら、出自をもろともしない影響を人間に及ぼすことのできる素質を指している。

 本作における「天使」とはタトエとして用いられている。背中から羽が生えてくるから天使であって、別に神託を携えているわけではない。この羽をもつ人々は空を飛べもするようだが、大抵はその神々しい通称から目を背けるように、羽をもがれたり奇病を患ったり鉄砲で撃たれたり、そんなみじめな人生を送る。
本作の主人公であるナツは羽をもつ人々に憧れを抱いていた。

 ナツの思い描く父の羽は、西洋の絵画にあるような白く巨大な翼で、翼を持った父はナツを抱き上げ、遠くの町まで飛んでいくのだ。もう一回生えてきたらいい。でなければ自分に羽が生えたらいい。幼いナツは、父の背を見て何度も思った。だから父の背中に突起ができたとき、願いが叶ったと思ってしまった。

 しかし彼女の憧れはおおよそ儚いものとして潰える。羽をもつ人々が飛ぶ姿を見ることが出来ないまま、小説は閉じる。赤紫の羽をもつバーテンダーの女性は、故郷で頻繁に見られたという、通天閣のまわりを天使たちが飛びまわっている逸話を少女に語ってくれるが、目の前で飛びはしない。
 この時点で本当に天使は飛ぶのかという疑いが残る。というか、本作を読む限りでは天使は飛ぶものであるという確証が取れない。かといって、天使は飛ばないと断言することも出来ない。全ては確定できない。それだけが断言できることだというわずかな確信を頼りに読み進めていくと、本作が徹頭徹尾、本物がどこにあるかわからないまま生活している人間たちによって織りなされている物語だという事実に行きあたる。
 たとえばナツは、「イモかんのん」というマガイモノを売ることによって生計を立てている。この病気による腫瘍から生まれたのだという血なまぐさい経歴を抱えている「イモかんのん」がなぜ売れるかというと、「ヒナの手羽肉」という珍味に似ているからなのだという。ナツは珍味の貴重さを利用して金策するが、小説の後半にてバーテンダーが客に出した皿を食い入るように見つめるように、実際に「ヒナの手羽肉」を見たことはない。ここには二重の転倒が見受けられる。通常、サギをする人間の手に携えられているウマい話は、本物は確かにあるとわかっている前提で進められるのだが、この少女は手に携えたウマい話の根拠さえもわからないまま人を欺いているのである。
それだけでない。少女がサギのタネであるマガイモノを得るためには、父親を苦しませなければいけないのである。いかに家計が逼迫しているとはいえ、肉親に阿鼻叫喚の痛みを味わわせてまで生き延びるのは正しいのかという、これまた正答のない事実に直面しながら彼女は詐取を続けている。
 本物を知ることのないまま生きている人間はナツだけではない。作中にて「彼」と名指される、背中の左側に大きな「穴」をくぼませている男は、少女に自らの生い立ちを語ってくれるのだが、壮絶な過去は自身の目でもって見たわけではなく、伝聞によって知ったに過ぎない。

Re: 隔月刊文芸誌 「Li-tweet」 (12月号) - 小野寺

2013/01/06 (Sun) 18:20:39

安部さん「流離」
「僕」は何かに苦しんでいるのはわかるのだけれども具体的に何であるのか、漠然としていて捕えがたい。おそらくは自らもいわく言い難い気持ちのままで書いたのではないのだろうか。文章に逆説的な表現が多く、~だったが、~だったという言い回しががとても多いからだ。言い切ることのできない感情が印象を形成しにくくしている。これは損なのではないのだろうかと思った。一読した時は内面的な完結があるような錯覚に陥ったが、そうでもないような気がしてきた。むしろ今回は地の文よりも会話文の方が流暢な感じがする。伊勢神宮の傍らに住んでいる男の話はそれなりに面白かったが逆に言ってしまうとそれ以外の部分は伝わらないもどかしさが多い。若さを強調したいのならある程度の「ぶりっ子」は必要で純文学にしてもキャラクターを設定したほうがいいように思う。前半の哲学?めいた感想もどうせならいつものように強靭なもののほうが面白く思うし、感性で勝負するには印象的な風景を描いているようにも思えなかった。ちょっと辛口であるかもしれないが。


常磐さん「體」文章は「不思議な運動会」に似ていると思ったが、かなりな直球で素直に泣ける作品だと思った。今回の雑誌掲載された作品の中では最もお勧めしたい作品だと思う。いじめの問題と言うと被害者意識や残酷さが強調されるがそこからの脱出と言うのは昔の児童文学や童話ではよくあったが最近はどうなのだろうか?昔の作品でも言葉をかけたり励ましたりするのはあってももっと踏み込んだ部分は欠落しているように思う。この作品は言葉を超えた行動を示している。それが私の感動した部分だ。ただ言葉だけではどうにもならないんだと思う。いじめに関するだけではなくもっと普遍的に人と人を繋ぐのは「體」なんだと言いたいのではないかとタイトルに照らして思った。意図的な伏字や稚拙な表現は賛否あるだろうけれどもこの作品においては成功していると思う。メジャーな作品じゃないかもしれないが光るし真実を突いていると思う。

レインボーさん「やるせない」
おそらく作者は物語を信じていないのだろうと思う。懐疑は懐疑を呼んで自意識は積み重なった。設定はミステリ作家ということになってるけど。小説論を展開している。小説の「方法序説」のようなものか。それはそれとして興味はないわけでもないが、答えが出そうにないことは悪いけれど目に見えている。テーマとしてちょっと手に負えないんじゃないかと思う。以前にレインボーさんには書きかけの作品をいくつか見せていただいたがあの作品はどうなってしまったのだろうか?それほど悪評でもなかったはず。批判をおそれることなく物語を紡いでいってもいいんじゃないかとも思う。まあ少し辛口ではあるが。

Re: 隔月刊文芸誌 「Li-tweet」 (12月号) - とーい

2012/12/30 (Sun) 11:01:40

遅くなり恐縮です。
簡単ですが、感想、ご笑読ください。


小野寺さん「ファナティック」

「人は安易に通俗を軽蔑するが通俗の中には動かし難い真実を含んでいるものもままあるのを彼は思い知らされた」 この一文に出会っただけで、ファナティックを読めてよかった。
人の死と絶望、苦労を描いて残酷でないのは、小野寺さんの人柄。
自分は小野寺さんの作品を読むたび、作者そのものに興味が湧く。絶望にあって絶望せず、人生をたのしむ余裕。通俗に真理を見出される姿はレヴィ=ストロースそのもの。 小野寺さんの野生の思考=私生活そのものが魅力的だと、自分は信じて疑わない。生意気な言い方をすれば、随筆を書かれる義務があるとおもう。


うさぎさん「あまりある自信」

自然な話の流れに共感する。いい意味で中二病的な主人公の自意識に共感した。ライトノベルしていることが、わたしは嬉しかった。
本題と逸れる。ラノベと純文学、どちらが上だろうか。
わたしのなかで、答えは決まっている。上も下もない。読み手の生きることに必要とされるものが正解と思う。楽しかったり、頑張ろうと思ったり、萌えたり。必要とされるものに必要とされることの尊さを、書き手は再認識すべきだろう。
人生の葛藤や業と萌えは両立できる。うさぎさんには真のエンタテイメントを、うさぎさんの想定される読者を楽しませることを、これからも追求して欲しい。
そのとき、あまりある自信について、違った答えや形が見つかるかもしれない。うさぎさんにとって、大きな宝物になるはずである。

しろくまさん「モノクローム」

ライカの神話性を思う。キャパ。旅を思わせる美意識が自分は好きだ。一枚の写真が描く世界、物語を、モノクロームが描く果てしない色彩をしろくまさんは信じているのだろう。
しろくまさんはどんな世界を見て、どんな世界を見て行くのだろうか。願わくは、戦争のない世界であって欲しい。
「天国があったら/地獄があったら」に出会えてよかった。
短い感想で恐縮です。

Re: 隔月刊文芸誌 「Li-tweet」 (12月号) - カヅヤ

2012/12/30 (Sun) 02:41:45

●常磐さん
好きだー。これ好きです。
このテンションで一貫して、ギャグも交えつつでもポイントは外さないできちんと描ききる。ぶれなさ具合もすごい。
二次元的なリアリティがあるなあ、と思いました。
アニメーション映像が頭に浮かびました。カタカタ表現が浮いていない。とてもしっくりくる。
名前を書かないというのは重要な意味があるんだろうけれど、その必然性が分からなかった。

余談。自分の近辺の火葬場では、親族がボタンを押す、というケースを見たことがなかったので(神奈川県央、群馬の一部地域)思わずググってしまいました。「えええ押すとか!ムリだろ!なんだよそれ!」と、軽くパニクってしまいました…。



●あべさん
ごめんなさい!苦手です!
作品云々というよりも、自分が、この手の作品が苦手なようです…。
(この手の、というのは、大学生、浪人生の抱える鬱屈。特に男子学生特有の感覚。外目には欠落などないのに、本人の中にはぼんやりとした鬱屈がある、というような)
語り手と作者の距離が近すぎて見えて、読むことにかなりの負荷を感じた。(他作品と比べてでアレなのですが、うさぎさんの作品の距離感は、安心して読めた。読者を傷つけないので)あえてやっている、ということもあるのでしょうが、自分は、もう少し小説世界と作者の間の距離を認識しながら読みたかった。たとえば一人称ではなく三人称で書くとか。

書いてある内容に対して書き方がオーバーに見えて、そこに読みながら引っかかりを感じてしまいました。

そのあたりは、常磐さんと対比してしまうのだけれど、
常磐さんは重めの話を軽さで書く。
内容より書き方が重くなると、私は引っかかってしまって。

読み手の経験により、すごく、すごくイラッとする内容が多いかもしれない。
私の中の卑屈さを、チクチクチクチク刺激していて、読んでいて、苦しかった。
また偶然なんですが、23年度高校入試問題集の中で「地上百キロから宇宙、だから僕は自転車で100キロ走る」という小説と、「直線というのは、もっとも原始的な人工を意味する形であり、四角いビルというのはうんたら」という論文を読んだ直後だったので、電車移動のシーンは色々考えさせられた。

「僕」という一人称と「二人」という三人称的な書き方はわざとでしょうか。読みづらく感じました。
「話さない人」→? おっちゃん、めっちゃ話してましたよね…? 私が何か読み違えているのでしょうか…。



●Rain坊さん
面白かったです。
ちょうどツイッタで岡崎京子の「うたかたの日々」について話した直後に読んだので、とっさに「うたかたの日々」に出てくる「パルトル」という人を思い出した。(原作未読なんですが、サルトルをもじってる)講演会に人が殺到しすぎて屋根登って人が屋根突き破って落ちて来るような。ファン過ぎて破産する人間が続出するような。

オチも、「死までも作品になる」という形が綺麗に示されていて、とてもすっきりまとまっていたと思う。
二回くらい読んで、「ん?でも死って別に理解してなくても想像力でなんぼでも書けるし体験したイコール理解でもないんじゃ?」と思ったのですが三回目読んで「『彼』の鬱憤だとか叫びだとか思いの丈だとかを語る言葉の中に『死』が不要だったからこそ『死』を理解しなかったしリアルに描くこともできなかったのかな」とひとり納得しました。

Re: 隔月刊文芸誌 「Li-tweet」 (12月号) - 6

2012/12/29 (Sat) 00:40:46

●「體」常磐誠
どのようなジャンルの作品に属するのか読んでいて不明瞭で、評価できない作品だった。
学校が舞台とされてイジメが大きなテーマ(それが一番のテーマかどうかは置いといて)になっていることからジュブナイル小説と一応判断して読み進めていた。
まず、世界観を把握することがしづらい。巧い小説と言うのはたとえば一行目で世界観を明示すると思うが本作品に関しては何行も読んだ後でそれらしい世界観がやっと把握できた。××というヒロインを救おうとし、小さな一歩を踏み出す作品であったことは判る。だが評価されているジュブナイル小説と言うのはおそらく非常に世界観の造形にこだわっていると思う。風景の描き方、小道具の使い方。名前の付け方にいたるまで……。
それらの工夫が残念ながら本作品では読みとることができなかった。場面転換なども読みづらく趣向があまり感じられなかった。非常にシンプルすぎる要素でしかこの小説は生きておらず、何か隠し味のようなものが味をひきだたせる小道具などがなかっただけに薄味と感じた。
××という名前が本作品の恐らくはミソであるとおもうのだけど、元来こういった文字を隠したり、あえて物事を明示しない方法は黙説法という名前で広く小説では使用されて来たけれど今回の黙説法が何かしらの効果を生んだようには思えず、読者の大切な誰かを代入して読んでくださいというようなものしか感じ取れなかった。
常磐誠という書き手の良さがもっとあると知っている読者としては、もっと頑張ってほしい……その一言が一番いいたい。

●「流離」安部孝作
最初は巧いと思った。夏みかんが箱詰めされておくられてきて、そこから満員電車にうつる箱詰めのイメージの連鎖はスムーズでありよかった。日常を何気ない思考を比喩などを織り交ぜて文学的なモチーフに転移させていくことができてもいた。無生物主語、擬人法、思考が行き着く先の架空風景……そういったものは最初は新鮮であった。ゆえに冒頭から暫くは読み進めていくことがかなり愉しくそれを脅威にも感じていたもののそればかりがえんえんと続けばさすがに飽きてくるし、進めば進むほど冒頭からそれにつづく最初にあった面白さ・詩性はそがれていくように感じた。
中盤辺りになりその強引さに辟易したところもある。また現実世界の描写が極めて退屈であり、空想世界のものはまだ「他のものと置き換え」が難しいように感じたが、現実世界においてはたやすくそれを可能にしてしまいそうな弱さがあった。
しかしレンタサイクルの主人との会話をきっかけに、自動感知のインターフォンの場面なども含めて「現実」がじょじょに面白く描けて結末にいたるまでで少し盛り返した感はあった。変に文学を呼びこまなくても日常それ自体の違和感を文学的に古今の巧い小説家たちは描いてきたと思うので、文学的なものから逃れることが最も文学らしくなるという矛盾をこの作者には飲みこんでもらいたい。

●「やるせない」Rain坊
Rain坊さん、大化けの一作!これは非常に良かった。
ある一人の作家についての文章を読み進めるうちにそれが「私」=「彼」であるというメタ的な構図が非常に良かった。ある作家の肥大していくイメージもきちんと冷静に描かれており、その肥大しきったイメージ・伏線もちゃんと回収できており、僕にはこのような遊び心ある作品は到底書くことができず、心からこの作品の誕生を祝福したいと思った。「殺害予告」=「遺書」という構図もセンスがよく、思想性の高い作品になっているのではないかとおもった。「私」が「彼」を「文」章で殺す。前代未聞の試みであり、書く私と書かれる私の分裂という極めてブッキシュなテーマは僕の大好物でもあり、端的に言ってこのアイデアをパクらせてもらいたいと思った。『大喝采』については、過去に『トリストラム・シャンディ』などでこういったページの使われ方があったと聞いたことがあり、それほど新しい試みではないが何となく許せる……。
ただ競売のシーンはいらないかなと思ったのと、このワード形式が非常に読みづらいのは指摘したい。

Re: 隔月刊文芸誌 「Li-tweet」 (12月号) - 安部孝作

2012/12/28 (Fri) 00:55:32

常磐さん「體」

まず、常磐さんらしい文章と言える。これは良かれ悪しかれ、表現において常磐さんの小説だ。文章が読みにくいわけではないし、タフではあるんだけれど、どこか非力な感じがする。不思議な文体と言えるが、改善の努力が必要ないと言うほど確立されたものではないと思うので、努力を求める。露悪的な表現も、硬質な文体に混じらなければ幼稚に見えてしまう。
次に、これは、常磐さんの優しさというものと触れ合う小説である。いじめや機能不全家族の問題は社会問題として解決されるべきものではない。もし社会に包摂された小集団や、個人だとしても、これは社会に拡大され、匿名で語られるべきものではない。この小説はそう言っているようにも思える。だからこそ、名前はすべて記号で表記され、遠い話、と近接した話の、二律背反がこの小説で起きている気がする。つまり著者は虚構性を排除しながら、社会問題的に解決されることを望まぬがために虚構を造らねばならない、という矛盾と向き合わねばならなかっただろう。そこにこの作品が生み出されたなら、それは意義あることだ。常磐さんのひとつの答えとして、この作品を受け止めたいと思う。だからこそ、読者に愬ものがあるのではないか。
また、これが日本文学というカテゴリーに提出されたことはどういう事か。それは、正に今、日本で置いていることに向き合っているからという事なのか。それとも、日本の今の、文学というもののスタイルが常磐さんの書くようなスタイルだからなのか。それは一つ、別に論じる必要性があるのではないか。ただし前者であれば、虚構は虚構であることで浮遊しまう可能性がある。つまり、私が書くもの、という指図が小説の中に内ならば、それが如何に内実をもっていようと、どこか嘘めいてしまうのだ。また、後者は文体についての話であって、これは、冒頭で述べた問題に関してなので、小説としての成功を問うものではない。以上。

Rain坊さん「やるせない」

ショートショート的な、落ちありの小説で、主人公が、仮面を被って彼となった時にミステリーを書き始めた理由がわかる遺書の書き方であると思えた。また、中盤で読めてしまいそうな、カラクリではあったが、最後に、オークションに掛るところまで読んで小説が完結したので、展開すべきところまで展開し、読者に先を越されることもなく、かつ置いていくこともなく、最後まで読者をちゃんと連れていってくれた。まだ物語に大胆さがないとはいえ、読者との誠実な関係を結ぼうと言う意志の感じられる作品だった。経験したことのないことを虚構で書いた時に、内容が空疎であることが指摘されるなら虚構とはまさに形式であって内実をもったものと言える。ある内実をもった文章が、経験したことないものとして現れるからこそ虚構という転換がある。ところが、主人公は、内実をもっていないのが先にある、それは彼であって私ではないから。
またRain坊さんの「読者観」「作者観」が垣間見える小説であったと思える。無論、語り手イコール作者イコール本人ではない、これは、この小説でも問題提起されていることだ。とはいえ、この主人公のやるせない感覚という、小説内の読者と自己への二重の裏切りは、この小説の作者自身の二重性についても同じことが言えるのではないか。つまり、独白なのではないかと思ったのだ。とはいえ、これは憶測。著者本人の考えであろうが無かろうが、こういうやるせなさ、というのは文学のテーマの一つだと思うので、もっと掘り起こせるように今後も頑張ってほしいと思う。最後に一つ、校正ミスがあった。一ページ目の、陥れるは、貶めるだと思う。以上。

第二回合評会への書面回答 - 日居

2012/12/26 (Wed) 17:00:51

遅ればせながら、とさえ言うのもはばかられる頃合いですが、欠席していた第二回合評会の書面回答が書きあがりましたので貼り付けておきます。何かの足しにしてください。

 『あまりある自信』うさぎ

 実はうさぎさんの作品にはちょっと後ろめたいところがありまして、というのも今回校正を担当したのですが、一つだけ、添削を迷った箇所があった。1ページ目の9行目。

 その光景が彼の顔と服装とがアンマッチで滑稽に見える。

 男がナース服を着る、という文章はそれだけで「滑稽」なので、冗語なのではないかと思い指摘しようかと思ったものの、踏みまよった挙句不問に付してしまいました。なぜかというと、作品の末尾にて携帯の送信ボタンを押し続ける「僕」の姿が引用した箇所にも乗り移ってきたからで、するとこれは冗語ではなく「僕」が、滑稽であれ、と乞い願っている文章ではないかという疑問がなかなか離れなかったのです。疑問をかかえたまま読み直していくと、一見クールな少年が目の前に飛び込んできた映画のキャラクターには目を輝かせて、そそのかされて書かされたメールでも、

  こんな狭くて幼稚な世界をありがとう。

 とハシャいでしまう、「幼稚」な姿が途端にありありと浮びあがってくる、同時に、ここまで突き放して書ける作者の筆の冷たさにワナナキが起こってくる。

校舎の外は晴天で、校庭ではサッカーをしているクソどもがいた。服装でサッカー部だとわかった。サッカー部の人間は、他の部の生徒よりも制服をオシャレな感じに着こなしているのが気に食わなかった。

 「クソども」と撥ねつけながらも、彼らがオシャレであることは認めている、どうでもいいとみなしている人間のことを、どうしてここまで観察できるのか、そもそもオシャレだから気に食わないとは、どういう論理にもとづいているのか。否応なく目に入ってくる世渡りの上手い人間たちの中で、どうにか自分を保とうと論理や価値を捻じ曲げてまで「クソども」と唾を吐き、精一杯に顰蹙を作ろうとする幼い目付きがここにはあります。
 とはいえ、彼が幼いだけの人間というわけではないのです。彼には英語教師の、律儀な性分を持つくせに生徒に取り入ろうとする「人間らしさ」を丹念になぞれる観察眼もそなえているし、

  雑誌のページをめくりながら、僕をうならせるものを探す。僕を興奮させるものは、太古の財宝や井戸の水源を探すようなもので簡単ではない。おにぎりを食べ終わっても、包んでいたアルミホイルを小さく握りつぶしながら、未だに雑誌に気持ちを集中させて 
いる。集中する時間が長くなると、自分の感覚が段々と失われていく。坐っている木の椅子の温もり、銀紙の尖ったところが手に刺さる感触、雑誌の写真がまるで自分の目の前で行われているような感覚、僕の夢と現実の境が曖昧になっていく。

こんな微細な感覚も言葉にできる。ただ、冒頭で引用した冗語にも近い懇願するような身振りを思い起こすと、こうした繊細さがどれだけ張り詰めた心遣いによって成り立っているのかと、遥か上を見つめる気分になってしまう。
証拠にその繊細さは崩れてしまう。この引用の後に映画のキャラクターが出てくるわけですが、ここまで状況描写と心情描写とのバランスを慎重に保っていたはずの文章は転調し、主人公の独白もほとんどなくなり、セリフと主人公の行動を叙述していくだけのものとなります。こうした展開にしたがって色調を変えていく文体を目の当たりにすると、主人公をクールな性格たらしめていたものが崩れた代わりに、もう一つ繊細に成り立っているものが浮き彫りになってくる。いわずもがな、作者の小説に対するバランス感覚です。
楽屋の出来事めいた話に戻りますと、ここまで考えたからには冒頭で引用した冗語も意図したものかと思わざるを得ず、宙づりめいた状況に耐えかねて、本当に冗語なら作者の方で気付くだろうと、矯正する側にもかかわらずうっちゃってしまいました。結果、掲載されたものでも冗語が消されていないところを見ると、俺の見立ても間違っていなかったようだな、とウヌボレてしまうのですが、「作者の真意」なるものがわからないのは当然で、それでもなお解釈者の悪あがきとして一つ出来るのは、真相を雲隠れにさせたまま作品と読者の関係を切断してしまう文章を引用し、虚々実々に誘い込もうとしているのは映画のキャラクターのみならず作者でもあるのだと指摘することだけです。

そして、僕の頭の中ではお昼前の妄想が再生される。さっきは聞こえなかった爆発音が頭の中ではっきりと聞こえた。

ついでにいうと、後ろめたい思いというのは、うさぎさんに対しても言えることですが、他の読者に先んじて作品を読めるばかりか、校正という作品のキモとなる文章までいじくれる立場に坐ってしまった心境も指しています。出来るだけなら遠ざかりたい立場だと思うのと同時に、あの旨味を吸いつくせるなら雑誌作成に携わるのも悪くない、と舌舐めずりをする顔までどこかで浮かべていそうだから尚のこと後ろめたくなります。

 『モノクローム』しろくま

 当て推量になりますが、冒頭に出てくる「マイケル」で『Black Or White』のギターリフが思い浮かびました。久しぶりに聴いてみるかと検索したところ、大分参考になる話がポロポロと出てきまして、ひょっとしてこれは『Black Or White』ありきで書いた小説なのかと思いました。なので、テキストを見失ってでも、あえて『Black Or White』を前提に語ろうと思います。
 原曲は端的に解釈して人種差別撤廃を訴えた曲です。黒か白か関係ない、とばかりに。そもそもマイケル・ジャクソンの出生地アメリカは、イギリスの植民地化によって白人が移住し、先住民であったインディアンは駆逐され、奴隷としてアフリカから黒人が呼び寄せられ、といった経緯から人種のルツボとなっていった土地です。おそらくブリタニアが描かれた「50ペンス」が登場する理由は、そしてブリタニアの描かれた硬貨がガラスを割りもせず小さな跡を残すだけという場面も、そうした文脈に基づいて考えられるべきなのでしょう。たぶん、ここにおいて「白」は無力であるということが示されているのだと思います。おもえば50ペンスも銀で出来ていますが、無理矢理にあてはめれば「白」とすることも出来なくはありません。
 そして「黒」、黒人である少年も無力である。彼には金でライカを買う財力もないし、いわずもがなその手でガラスを破ることなど出来はしない。そこで出てくるのが、冒頭の一文です。

 赤は、色の無い世界では明るさによって白くも黒くも写る。

 レンガの色も、「赤」です。本作において大事なのは「赤」らしい。そこで『Black Or White』に立ち戻ってみると、この曲の合間でラップが挟まれるのですが、そこではこう歌われている。「See, it's not about races/Just places faces/Where your blood comes from/Is where your space is」(見なよ、大事なのは人種じゃない、その人の顔とか血とか、よって立つ足場だよ)。大事なのは「赤」、すなわち血のおもむくところ、本能が指すところ、といったところでしょうか。
 しかし「赤」というものは赤信号にも使われるだけあって、危険をも指しています。本作においても、ライカを盗んだことがバレてしまうのを恐れて少年は女性を殺してしまう。恐怖する本能に従って、震えあがる血に従って、赤いレンガで女性を殺してしまう。そして、「黒い血溜まり」とは書かれますが、実際は「赤」いだろう血が流れてしまう。おそらく、色の持つこうした両義性を描きたかった小説なのではないかと思いました。
 余談になりますが、『Black Or White』のPVでは曲が終わった後にマイケルが独演で本能のおもむくところに従うようにダンスを披露したかと思いきや、あちこちのガラスを割っていくシーンが続きます。そのガラスには「KKK」(白人至上主義団体)だの、ナチスの逆卍だの、人種差別を彷彿させるキーワードが塗りつけられていて、それと闘うマイケルという構図が明確に押し出されています。
本作においてもライカを盗み出すためにはガラスを割らなければならない、とするあたり、相当に『Black Or White』の影響が出ているのだと読みましたが、これで本当に当て推量だったら目も当てられないところです。

 『ファナティック』小野寺那仁

 漠然とした言葉から始めるのは恐縮なのですが、本作を読んで思ったのは堕落した人間を描いている割に、粘り気がないということでした。
もうちょっと具体的かつ偏見を込めていうと、堕落した人間というものはおおよそ過去に何らかの事情があったがために堕落してしまっていて、彼自身それを踏まえているから過去にひたすら固執する。過去というものは彼の内面に存するものですから、たとえそこに潜んでいるものを書いても状況描写というよりも心理描写と言った方がふさわしいものが出来上がります。おまけに時間は進みません。なぜなら進み行くはずの現在および目の前の状況を一度シャットアウトしながら、もう済んでしまった上に本人の中では整理されている事柄を語るのですから。私が初めに粘り気と書いたのは、そういう滞った時間感覚を指しています。
では、なぜ本作に粘り気が感じられないのか。たとえば1ページ目にて主人公が無一文にいたるまでの経緯が語られますが、引越のアルバイトやコンピュータの会社に勤めながら彼が感じたことなどはほとんど語られず、単純に入ってからやめるまでの道行きしか記されていない。その後、訪問販売で培った見ず知らずの他人と話す思いきりのよさや、仕事から帰宅して早々真っ赤にそまった便器を目の当たりにする様などは語られますが、それらを引き出すのもバイト募集の広告を張っている店とはいえ履歴書も持たずに「店員におもむろに訊」ける理由だったり、パチンコ屋で出会った引越業者の社長の誘いを断ったりといった、彼の行動を裏付けているものを語るに過ぎない、いや正しくは彼の行動が先にあった上でそれをもっともらしくしようとするがために裏付けらしき過去が取り出されてくるのです。要するに、本作は過去を語る際に目の前の現在を遮断して内面へと粘っていくのではなく、あくまでも現在の流れに沿い続けている。だから粘らない。
 こうした傾向は、鳴海に借りた金だけでは工面がつかずどうしたものかと思案するうち、不和をきたした父へと思いが至り、父に別れさせられた香澄との過去を語る場面になると顕著になります。現在に添わせる形で過去を語っている文体もさることながら、

  こんなふうにすっぱりと過去を断ち切れるのはひとつには元号が昭和から平成に変わったからかもしれなかった。

こういった強引な理由で回想を切断してしまうのも、現在を滞らせない効果を生み出します。
のみならず「かもしれなかった」という推測に着目すれば、実際主人公は過去を断ち切れているのかという疑問が立ちあがってきます。「元号が昭和から平成に変わった」という歴史の出来事を持ち出したのも、目の前に転がっていて手に余る音信不通という事実をどうにか片付けようとする苦し紛れの手つきに見えてくる。
そこから導き出されるのは、主人公の中で香澄は「すっぱりと」「断ち切れ」ている存在ではないし、彼女は過去の存在ではなく現在も主人公の心を占めている存在だという事実です。証拠に、一度だけながら主人公はすっぱりと断ち切っているはずの過去を、待ち合わせたビヤホールにこれからやってくるだろう眞子に重ね合わせながら思い出します。

 眞子は少女体型の香澄とは違って肉感的な逞しい身体つきだった。

ふたたび小説の構造へと目を向ければ、本作で語られるものは全て滞ることなく進行し続ける現在なのです。そして、そこから主人公が過去につなぎとめられず、パチンコや金策に腐心するだけの、点在しながらもそれぞれは孤立した現在が支配するだけのその場しのぎの生活を送っていることへとつながっていく。なおかつ繋ぎとめられていないのは時間だけではありません。主人公の人間関係も同様です。たとえばミリタリー関係のショップに足を運ぶものの店主に上手くあしらわれるシーンに代表されるように、「彼」は他人と深いコミュニケーションを結べない。想いを寄せていた眞子にも振り向かれず、彼女の愚痴をかきつけるだけのメモ帳と化すだけで、彼女が深刻に抱いているはずの野望や葛藤などは漠然と感じるだけにとどまる。眞子が強引に引き合わせる形で関わりを持ったチャーリーというオーストラリア人も主人公からは離れてしまう。散々金を貸してくれるなど付き合いを保ってくれていた鳴海に対しても、彼が求めている女性像などは掴むことが出来ず、突然病院に運ばれてしまった原因も、事件が起きるまで彼が抱えていた苦悩なども知ることはできない。本作においてこれらの事実を書きつける際に共通しているのは、主人公が他人の内面に深く入りこむことが出来ていないということです。
この点、主人公は完全に孤立しています。そしてここには本当の堕落がある。冒頭で示したような、過去へ粘りつくような堕落とは違う、本当の堕落が。過去へと粘りつくならば、過去から因果を取り出すことで自分の現在が保証されるのならば、彼は確固とした自我を保てているだけ、まだ救いようがあります。しかし、この主人公は最早確固とした自我さえ持てていない。他者とも関わることが出来ず、過去とも折り合いをつけることが出来ない、おまけに自分を結びつけてくれる、現在の先にある未来を持つことも出来ない。そうした姿を、私たちは正しく孤独と呼ぶことができましょう。

Re: 隔月刊文芸誌 「Li-tweet」 (12月号) - 安部孝作

2012/12/21 (Fri) 19:50:34

今日の合評会参加はしようと思うのですが、予め感想を貼り付けておきます。もしものことがあったら厭なので。

小野寺さん「ファナティク」

まずこの小説を読み終えて、妙にすっきりした感覚を覚えた。最後鳴海が死んでしまうにもかかわらず、小説の中の乾いた雰囲気のせいだろうか、それとも終わるべきタイミングで終わったからだろうか。これは良いすっきりさ、である。友人の死が最後であったとしてもだ。ファナティク、つまり熱狂というのは寧ろ世間の方だろう。1992年、冒頭に書いてある年は、バブルが弾けた直後であり、まだ世間はうかうかしていたのではないだろうか、それは両方の意味で。つまり、いまだ夢想に囚われている人、そして悪夢に沈んでいく人、この両方で。そして主人公は実のところその煽りの世界で生きていて、乾いている。社会におけるフェーン現象とでも言うべき熱がここにはあるかもしれない。魚河岸だろうがなんだろうが、あまり臭わない。主人公は作中で感覚の鈍磨を体験している。その上、いや、それゆえ転がりつづける。転がることは意識的でなく重力に従うだけかもしれない。だがそれには熱がある。そう言う意味でのファナティクという事があるのではないか。また眞子はまさに熱狂の人物、ヒステリックとも言えるが、それは弱さの裏返しで、思えば泡というものそれ自体が弱さと熱狂を象徴しうるものである。トルストイを読みこんでいると言うあたりが、この人物の本質的な純真さを表しているし、弱さ故に反抗的になるという一面を表している。負けず嫌いは勝ちたいのではない、負けたくないだけで、弱いのだ。そして、主人公は負けられる、勝ちたいとも思わないかもしれないが、銃の店の店主にはむかっ腹を立てるし決して捨ててしまった人間ではない。けれど、感覚に対して距離を置いている。それは自分、あるいは他者のものにも。パチンコでも十連発でやめたり、勝てなくなった時に辞められなかったり、この人物も弱い。けれど負けられる強さがある。それは鈍いだけかもしれないが。そして、白川という人物という鳴海という人物といい、主人公は自分では理解しているのかもしれないが、結局読み終わって、今一つ理解できなかったのはなぜだろか。それは白川が気楽な人物で、鳴海が謎をもつ(洞察力の鋭い人間ほど、自分の中に洞窟をもつ)人間だったからということで、つまり、白川は奥行きがないけど上手く生きていける人間のタイプで、鳴海は上手く生きることもできる人間だったからだ。主人公はその奥行きを見定められないし、それどころじゃなくて金が欲しかった。けれど、最後だけは自分だけが判っているという状況に追い込まれる。思い返せば、という後悔に囚われる。そう、丁度ブコウスキーの「街一番の美女」のようなすっきり感と後味の悪さを兼ね備えている。とは言え、この主人公はブコウスキーにはなれない。なんといっても金を借りるからだ。随所随所で出て来る文学趣味も、ブコウスキー的でない。作家志望でなれないでいる、けれどその理由が判らないでぼうっとしていて、なれるという自身がない。ディレッタンティズムにも飽きた、そういう状態なのだろう。なんだか批判めいてしまったが、小説としてはもちろん面白かった。


うさぎさん「ありあまる自信」

すこし気になったのは、お約束が多いこと。それからジョーカーが登場するということ。着想は良いのかもしれないが、ちょっと尻切れトンボで、むしろ送信し始めてからの展開がもっと欲しかった。それから高校生なのだから、中二病的な要素があるとしても、もっとスノッブであってほしい。これが高校ではなく中学の話ならまだいい。けれど、具体的な名詞を羅列してぺダンティックにしたり、メール文書に哲学の断章を引用したりするくらいはあってもいいと思う。僕も高校の時映画撮影を目指すか考えたこともあるが、フィルムアカデミーにどうやって入学できるか調べたり、映画雑誌じゃなくて映画を見たりとした。それから一人で撮影するための本を読んだりもした。結局一本しか取れなかったけれど、またやりたいと思っている。そう思うと、全体的に物足りなさを感じる小説であったと思う。ジョーカーが登場する時点で、あんまり道をそれていないと思う(主人公が逸れていると自認しているだけあって)。勿論タイトルからして、根拠ない自信というのがいいだろうが、根拠らしさをみせながら誇大妄想していくというのでないと説得力がないと思った。

しろくまさん「モノクローム」

詩を小説にしたような印象が始めはあった。けれど、これは短くしていくために削り取っていく作業の結果としての抽象性なんだろう。色と光を巡って、物語が運んでいる気もして、意味や具象性よりも、映像的に動いていく小説だなと思った。写真をやってるしろくまさんらしい作品なのかもしれない。マイケルが主人公で、女性を殺害してしまったことに付いてのことが冒頭にあり、この短さと区切れの無さから、どう話が進行していくのか、初読ではつかみにくいかもしれない。けれどさっきも言ったように、色と光を巡って展開していく小説だという事がつかめれば、その面白さが判るのではないか。ただ、なんせ短いから小説というよりは物語、寸劇、としての面白さで、超越性や、内面性をもう少し感じたいと思った。

「あまりある自信」について - 6

2012/12/13 (Thu) 01:03:40

下記の文章をツイートいたしました。

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「あまりある自信」読み終えました。ありふれた高校生活を丹念に描くことでそれがいかにばかばかしい行為なのかを再確認することができました。その緻密な描き方と冒頭と結末が一つの輪のようになっている構造が好きです。
映画の世界が主人公の理想としてあり続ける中で「何も起こらなかった」或いは「起きたけど描写は省かれた」ことが疑問ではありました。どこかで「光景」として美しく印象に残る場面があれば、作品の厚みが持てたのではないかと思います。結末があっさりしているのは賛成なのですが。

知人からの指摘 - カヅヤ

2012/12/09 (Sun) 16:00:19

日本文学の研究者をしている知人に、「対談」についてのご指摘を頂きました。

そもそも、三人でやるものは「対談」ではなく「鼎談」、ないし「座談」。「座談“会”」は四人以上を指す。

「拙さが目立つと、中身に触れられず、外側の批判だけで終わってしまうこともある」という、耳の痛いお言葉をいただきました…。

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